、無銭《ただ》同様で引受けて、桑を植えた。その男には別に祟りも見えなかった。世間も安心し、当人も自慢でいると、或る年の冬、その畑に手入れをしているとき、桑の枯枝を結《ゆわ》えてあった藁《わら》がプツリと切れて、その枝が眼を撥《は》ねた。家へ帰って来る間に、その眼がつぶれてしまった。
 それから後、七兵衛屋敷はどうなったか知らない。

 壬生《みぶ》の村のその晩はことに静かな晩でした。南部屋敷もさすがに人は寝静まる、勘定方《かんじょうかた》平間重助《ひらまじゅうすけ》は、井上源三郎と碁《ご》を打っているばかり。井上の方が少し強くて、平間は二|目《もく》まで追い落される。二人が碁をはじめると夜明しをするのが定例《きまり》。お互いに天狗を言いながら局面を睨《にら》んでいると、夜中にフイと行燈《あんどん》の火が消えた。
「や、油が尽きたかな、火取虫めのいたずら[#「いたずら」に傍点]か」
 ようやく附木《つけぎ》の火はついた。室には何の変ったこともなく、盤面の石もそのままに。行燈の油が尽きたのでも火取虫が来たのでもないようであったが、碁に夢中な二人は燈火《あかり》の消えた原因などを調べている余裕《よゆう》はなく、再び燈火がつくとそのまま碁を打ちつづける。夜明け方になってこの碁が済むと、井上は帰り平間は寝る。
 南部屋敷を七兵衛が覘《ねら》った晩は、この室で行燈の火が消えたほかにはなんらの異状もなくて済んだが、その翌朝、平間重助は、昨夜碁を打った室に、ものすごい顔をして坐っている。
「平間氏」
 障子を開いて身を現わしたのは、追分の松の下で棒を振った仲裁の人、一ぜん飯屋で七兵衛を不審がらせた小間物屋、まことは山崎譲。
「おお山崎君」
 山崎は前夜の通り、無腰《むこし》のまま地味《じみ》な藍縞《あいじま》の商人|体《てい》で平間の前へ無造作《むぞうさ》に坐り、
「顔の色が悪いようだ」
「うむ、そうか」
「昨夜も、碁で夜明しをやったな」
「うむ」
 平間の意気は沈んでいる。山崎が軽く話しかけるほど口が重くなる。
「どうした、おかしいぞ、今日は」
「山崎君、大変が出来《しゅったい》した」
「大変とは?」
 平間は首を垂れた後、屹《きっ》と山崎の面《かお》を見て、
「山崎君、拙者の頼みを聞いてくれ」
「何だ、改まって」
「一生の頼みじゃ」
「一生の頼み? 真顔《まがお》で言うだけに気
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