》はどこから出るんだね」
「会津様から出るのでございます。そのほかにもだいぶ収入《みいり》がおありなさるようで、茶屋や揚屋で、あのお仲間がお使いなさるのは大したもの、景気が素敵《すてき》によいのでございます」
「うむ――そうかね」
話はここで途切れて、どこかの寺院《てら》の鐘が鳴る。
「はてな」
「四ツでございます」
七兵衛は飯を食い終って、代を払い、この店を出て壬生村の闇《やみ》に消える。
七兵衛は、地上を縦に走ると共に、横に走ることもできたという。横に走るとは、塀なり垣根なりを足場として、地上とは身を平行にして或る距離を疾走《しっそう》する。また、逆に天地返しの歩き方というのをやる。天地返しとは、天井へ足をつけて、頭を地上にぶらさげて歩く、壁を直角にかけ上る気合で天井を一歩きして来るものであろう。
七兵衛は子供の頃から、屋《や》の棟《むね》を歩くのが好きであった。自分の家の屋の棟を歩き終ると、隣りの屋根へ飛び移って、それからそれと宿《しゅく》の土を踏まずに歩いていた。長い竿《さお》で追いかけられる、その竿をくぐり抜けて、木の枝に飛びつき、塀の峰を走る。八方から竿でつきかけて、ついに足を払い得たものもなかったそうです。
月の宵《よい》、星の夜、真暗《まっくら》な闇の晩、飄々《ひょうひょう》として七兵衛が、この屋の棟遊びをやらかすことがある。秩父颪《ちちぶおろし》の烈しい晩など、サーッと軒を払って散る淅瀝《せきれき》の声が止むと、乾き切った杉の皮がサラサラと鳴る。ト、ト、トと、なずなを刻《きざ》むような音を屋根裏で聞くと、老人は眉をひそめて、
「七公、また悪戯《いたずら》をはじめやがったな」
七兵衛は、地上の物をとることが上手《じょうず》なように、水の中の物をもよく探ることができた。
七兵衛が、多摩川の岸の岩の上に立って、水の中を見ながら、それそこには鮎《あゆ》がいる、山魚《やまめ》がいる、かじか[#「かじか」に傍点]がいる、はや[#「はや」に傍点]がいる、おこぜ[#「おこぜ」に傍点]がいる、ぎんぎょ[#「ぎんぎょ」に傍点]がいる。それそっちへ行った、それこっちへ来たと独言《ひとりごと》を言っている。誰が見てもそんなものは一つも見えないのに、熟練な漁師が見てさえも見えないのに、岩の上からおりて来て、手を或る石の下へ入れると、その言った通りの方角で、言っ
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