は気分が軽い、霽《は》れにしてはしっとり[#「しっとり」に傍点]とした、都の春の宵《よい》の色としては、申し分のない夜でありました。
 兵馬は橋の上へ来てから、大事なものを踏むように、わざとゆっくりゆっくり歩いています……朧月夜もふけて丑三《うしみつ》過ぎで、無論、人の通ることは宵から数えるほどしかなかったのですから、この深夜には誰《たれ》憚《はばか》るものもない、千金にも替え難き都の春の夜を一人占めにして歩いているようなものです。
 京都に来ても兵馬は、ワザと罪なき人を斬ったり、喧嘩《けんか》を買って出たりすることはしなかった。暇があれば、壬生寺《みぶでら》の本堂に籠ったり、深夜、物騒《ぶっそう》な町を歩いてみるくらいのことで、いままでは至って無事でした。竜之助が悠々と、途中で道場荒しなどをやって、日数《ひかず》を多くかけて京都まで来る間に、兵馬は新徴組と共に、一直線にこっちへ来ていたので、京都の経験は兵馬の方が一月の余も上であります。
 すべての消息から、竜之助が京都へ落ちたことは真実《まこと》である、京都で必ず探し当てる、これも兵馬が夜歩きをする一つの理由でありましょう。しかしながら、京都へ来てみて、天下の形勢というものを見たり、諸藩の武士の、国家を一人で背負《しょ》って立つような意気込みを見ると――兵馬はどうも、知らず知らず自分が大海《おおうみ》へ泳ぎ出したような心持もするのです。
 兵馬はこの夜、浪人者が数人、隊をなして一つの駕籠を守って行くのを三条の通りで見かけました。その後ろ姿を見て、兵馬は合点のゆかぬ思いをしながら壬生の屯所《とんしょ》へ帰って来たのでありました。
「あれは組のうちでたしかに見た男」

 夜歩きをして壬生へ帰った翌朝、隊長の近藤勇から使が来て、急に会いたいというから兵馬は、勇の前へ出ると、勇は刀架《かたなかけ》に秘蔵の虎徹《こてつ》を載せて、敷皮の上に、腕を拱《こまね》き端然と坐っていたが、兵馬を見る眼が、今日はいつもより険《けわ》しい。
「宇津木、もう夜歩きはならんぞ」
「は?」
 勇は、兵馬の不審がる面《かお》を、上から見据えているのです。
「隊長、それは――」
「うむ、夜歩きをするな」
 近藤の語気には含むところがある、何とも理由は明かさず、頭からガンと夜歩きを差止めて、まだ何か余憤があるようです。しかし言いわけをしても駄目であ
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