て来たと伝えてくれ、近藤、土方には知らせたくない」
「よし、そう言おう。宿はどこへ取る」
「左様、目立たぬよう、然るべきところはないか、周旋を頼む」
「六角堂の鐙屋《あぶみや》というのを拙者は知っている、それへ紹介しよう」
「よろしく頼む」
こんな話をして酒を飲み合い、微醺《びくん》を帯びてこの茶屋を出ると、醍醐《だいご》から宇治の方面へ夕暮の鴉《からす》が飛んで行く。
「それはそうと吉田氏、京都へ入ったなら、滅多《めった》に刀は抜かぬがよいぞ、血の気の多いのがウヨウヨいる、今の壮士のような奴が」
「あの命知らずには驚いた」
「しかし、あんなのは珍らしい、全くの命知らずじゃ。そうそう、何と言ったかな、あいつの名前は」
「薩州の田中新兵衛と聞いた」
「田中新兵衛……そうか、覚えておくことだ、あんなのが好んで暗殺をやる。去年、四条磧《しじょうがわら》で九条家の島田|左近《さこん》を斬ったのも、まだ上らぬのじゃ」
「暗殺が流行《はや》るそうだな」
六
壬生《みぶ》の村から二条城まで、わざと淋しいところを選んで、通りを東に町を縫《ぬ》い、あてもなく辿《たど》り行く人影に見覚えがある。まだ前髪立ちの少年なるに、腰には厳《いか》めしき刀を差し、時々は扇子《せんす》の要《かなめ》を柄頭《つかがしら》のあたりに立てて、思い出したように町並《まちなみ》や、道筋、それから仰いで朧月《おぼろづき》の夜をながめているのは、いつのまにこの地へ来たか、その人は宇津木兵馬であることに疑いないのです。
世は混乱の時といえ、さすが千有余年の王城の地には佳気があって、町の中には険呑《けんのん》な空気が立罩《たてこ》めて、ややもすれば嫉刀《ねたば》が走るのに、こうして、朧月夜に、鴨川の水の音を聞いて、勾配《こうばい》の寛《ゆる》やかな三条の大橋を前に、花に匂う華頂山、霞に迷う如意《にょい》ヶ岳《たけ》、祇園《ぎおん》から八坂《やさか》の塔の眠れるように、清水《きよみず》より大谷へ、烟《けむり》とも霧ともつかぬ柔らかな夜の水蒸気が、ふうわりと棚曳《たなび》いて、天上の美人が甘い眠りに落ちて行くような気持に、ひたひたと浸《つ》けられてゆく時は、骨もおのずから溶ける心地《ここち》がする。朧月夜とはいうものの、四月もすでに半ば過ぎ、空のどこに月ありとも見えねど一帯に明るい。曇りにして
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