る。近藤が言い出したら、これは是非の余裕がないことを知っていますから、兵馬は黙って控えている。
勇は筋骨質の人です、頬の骨は磐石《ばんじゃく》の如くに固く、額は剛鉄《あらがね》を張ったように強く、その間から光る眼玉に、どうかすると非常な優しみがあるが、少し機嫌《きげん》の悪い時は、正面《まとも》には見ていられない険しさ、ほとんど獰悪《どうあく》の色が現われてきます。もし誰か勇に会って、獰悪な眼の光を浴びせられたものがあるならば、その翌日の朝になると、その人は、必ずどこかの辻《つじ》に、二つになって斃《たお》れているのが例であります。兵馬はいま、勇が少しくその機嫌を損じていることを認めます。勇の怒りの怖るべきことをも知っています。しかしながら自分に疚《やま》しいことはない――今は弁解しても駄目であるが、おのずから事情のわかる時がある、事情がわかれば勇の気象《きしょう》はカラリと晴れる。そのことをよく呑み込んでいるので、
「心得ました、いかにも夜歩きは差控《さしひか》えます」
「よし」
兵馬は、これで自分の詰所《つめしょ》の方へ帰って来ます。
井戸側のところへ来ると、新撰組隊士が二人ほど、水を汲んで面を洗っていましたが、
「井村、昨夜は晩《おそ》かったな」
「うん、飛んだ寝坊をしちまった」
「どこへ出かけた」
「悪いところへ行った」
二人の話し合いを、兵馬が通りがけに、ふと耳に入れて気がつくと、あの井村の様子――昨夜の駕籠を守って行った浪人者のうちの一人によく似ている。
ここに一つの事件がある、それは新徴組の隊長芹沢鴨が、京都のある富家の女房を奪い来《きた》って己《おの》が妾《めかけ》同様にしてしまったことです。芹沢はじめその手に属するものの横暴は今に始まったのではないが、今度のやり方は強盗に類することであった。そうしてその話が兵馬の耳にまで入ったのは翌日のことで、兵馬はふと、前夜の夜歩きの時に見かけた浪人ども――それと芹沢が奪い来ったという町家《ちょうか》の女房との間に脈絡があるように思われてならぬ。ことにその浪人どものうちの一人は、たしかに芹沢配下の井村に違いないと思われるから、いよいよ以て奇怪に感じてその翌日、隊の門を潜《くぐ》ると、ちょうど出会頭《であいがしら》のように物置の方から出て来た井村。
「井村君」
兵馬が呼び留めると、
「や」
井村はギ
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