郷元町の山岡屋の前まで来る。山岡屋は戸が締まって売家の札が斜めに貼られてある。
 暫らく立って見ていると、
「もし旦那」
 後ろから呼びかけたのは紙屑買い。
「私ですかえ」
「へえ、左様で」
「何ぞ御用かえ」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、旦那様はさいぜんからこの店の模様をごらんになっておりまするが……」
 紙屑買いは手拭を畳んで冠《かぶ》った額越《ひたいご》しに七兵衛の面を仰ぎ、
「山岡屋のことで何かお聞きになりたいならば、私がよく知っておりますから」
 妙な差出口《さしでぐち》をする男であるが、べつだん懐中から十手《じって》が飛び出しそうにもないから、これには何か仔細《しさい》があるだろうと七兵衛は、
「それは幸い。山岡屋さんは今どこへお引越しになりました」
「それには長いお話があります。旦那様どちらへおいででございますか、なんなら歩きながらお話を致しましょう」
「私は新宿の方へ行きますが」
「それなら私も四谷の方へ参りますから、御一緒にお伴《とも》をしながら、山岡屋没落の一代記をお話し申すことに致しましょう」
 七兵衛は気味の悪い紙屑買いと思いながらも、まあ何を言い出すか聞くだけ聞いてやろうと、道づれになって歩き出すと、
「今から四年ほど前の夏の盛りのことでございました。或る晩のこと、あの山岡屋へ泥棒が入りましてな」
「ふーむ」
「ちょうど旦那は留守でございました。ところがお内儀《かみ》さんのお滝というのが、眉の毛を剃《そ》り落した若い男を引張り込んでふざけているところへ、その泥棒がお見舞い申したのでございます」
「なるほど」
「その泥棒というのが、ただの物盗《ものと》りばかりではない、意趣返《いしゅがえ》しに来たものと見えて、内儀さんと若い男をずいぶんこっぴどい目に遭《あ》わせて帰りました」
「なるほど」
「とても委《くわ》しくは申し上げられませんが、早い話がお内儀さんと若い男を素裸《すっぱだか》にしましてな」
「ふむ」
「それでお前さん、朝になってからの騒ぎというものは御覧《ごろう》じろ、話にも絵にもなりませんわ」
「なるほど」
「それが忽《たちま》ち評判になる、山岡屋のお内儀《かみ》さんは強盗に裸にされたという噂《うわさ》がパッとひろがったから、とても居堪《いたたま》れません」
「なるほど」
「そこへ御主人が帰って来た」
「ふむ」
「さあ、家は揉《も》める、なんしろお内儀さんというのが家附きの娘ですから、出るの入るの、摺《す》った揉んだのあげく」
「離縁になったのかな」
「ところが騒ぎの真最中《まっさいちゅう》、御亭主殿が急に患《わずら》いついてポクリと死んでしまいました」
「はあ――て」
「それからお内儀さんというものが捨鉢《すてばち》の大乱痴気《だいらんちき》で身上《しんしょう》は忽ちに滅茶滅茶、家倉《いえくら》は人手に渡る」
「ふむ」
「そのまた買った人がどうしても伸立《のだ》たない。なんでもあの土蔵からお化《ば》けが出るという噂で、あれからもう三代目、こうしていまだに売物に出ていますようなわけで」
「それはまあ、なんにしてもお気の毒……そのお内儀さんというのは今どうしていますな」
「さあ、そいつが聞きもので……しかし私ばかりこうベラベラ喋《しゃべ》ってもよいもんですかどうですか。旦那、お前様はいったい山岡屋の何なんでございます」
「お前さんはまた何だえ」
 二人は面《かお》を見合せて、
「実は旦那」
 紙屑買いの言葉が妙に改まって、
「私共の面にはお見覚えがござんすまいが、私共の方には旦那のお面にようく見覚えがござります」
「何だ、私の面に見覚えとは」
「へへ、何を隠しましょう、と大きく出るほどの者ではございませんが、実はあのころ山岡屋に丁稚奉公《でっちぼうこう》をしておりました」
「はあ、山岡屋の番頭さんか、それはお見外《みそ》れ申しました」
「ちょうど、旦那があのお松という子をつれて店前《みせさき》へおいでなすった時、お面をよく見覚えておきました」
「なるほど」
「なるほどだけでは張合いがございません。私もあのドサクサまぎれに店の金を少々持逃げ致しまして、ちっとばかり悪いことをやり、今ではこんな姿に落ちぶれました。旦那をお見かけ申したのは、ほかじゃあございません……」
「何だい」
「もとはと申せば、みんなお前様の蒔《ま》いた種といってもよいのでございますから、どうかいくらか恵んでやって下さいまし」
「お前さんも相当の悪《わる》になったね」
 七兵衛はジロリと紙屑買いの面を見ると、紙屑買いは嫌味《いやみ》な笑い方をして、
「その代り旦那、お前様がつれておいでなすったあのお松という女の子、あの子の行方《ゆくえ》を私がすっかり喋《しゃべ》ってしまいますよ」
「うむ、そうか、ともかくお前さんにこれを上げるから喋れるだけ喋ってごらん」
 七兵衛は懐中から取り出した財布《さいふ》をソックリ紙屑買いに手渡しする。
「どうもこりゃ恐れ入りやした。それでは旦那、これから私がその娘さんのいるところへ御案内をしてしまいましょう」
 それで二人が神楽坂《かぐらざか》のところまで来ると、紙屑買いは足が痛い痛いと言い出す。どうやらおれを蒔《ま》く気だなと悟った七兵衛は、わざと油断《ゆだん》をしていると、ふいと路地を切れて姿を隠す。先廻りをした七兵衛、
「おい大将」
 横の方から御膳駕《ごぜんかご》をつく。
「やあ――」
「何がやあだ」
「旦那は足が早い」
「お前さんも早い」
「御冗談《ごじょうだん》を」
「足の痛いのは癒《なお》ったかね」
「また痛み出してきました」
「そんなら今のように駈け出してごらん」
「もう御免《ごめん》です」
「いったい、わしをどこへつれて行きなさる」
「山岡屋のお内儀さんのところへ」
「山岡屋のおかみさんはどこにおいでなさる」
「新宿に」
「それじゃあ方角が違わあ」
「また出直しましょう」
「今度は屑屋さん先へおいで」
 二人はまた歩み出すと、西の空がポーッと赤くなります。
「あれ、あんなに赤く」
「火事だ」
「新宿の方だね」
「でも、風がないから大したことはありますまい」
 言っているうちに火の赤るみはようやく大きくなる。
「たしかに新宿の方角だ、早く行こう」
「足が痛うございます」
 七兵衛は紙屑買いの手を取って引摺《ひきず》る。紙屑買いは苦しがって、
「旦那、そう引張っちゃいけません、お前様の足は早過ぎる」
「グズグズ言わずに早く歩きなさい」
「まあ待って下さい。それじゃあ旦那、私は白状しちまいます。お前様のお尋ねなさるお松さんという娘は、女郎《じょろう》に売られちまったんですよ」
「ナニ、女郎に? どこへ」
「それがお前様……」
「早く言え」
 七兵衛は紙屑買いの手を捻《ね》じ上げると、
「それが遠くで」
「どこだ」
「京都へ売られて行ってます。痛い!」
 紙屑買いの自白するところによると、お滝はあの晩、与八を出し抜いてお松を欺《あざむ》き、急にこの男の家へつれて来たとのこと、そこへつれて来ると共にお松を人買いの手に売り渡したこと、その売渡し先は京都の島原《しまばら》であること、わざわざ京都へ売ったのは江戸では事の発覚を怖れたからで、折よく京都の方から買手が来ていたので話が纏《まと》まったものだということです。この男の言うことがどのくらいまで信用が置けるか知らないが、前後の話の辻褄《つじつま》はよく合うから七兵衛は、
「さあ、お前の家まで行こう」
「旦那、もうどうか御免なすって」
「お滝という女はお前の家にいるんだろう」
「いいえ、どう致しまして」
「お滝とお前と共謀《ぐる》になってお松を誘拐《かどわか》して売ったに違いない」
「ナニ、そんなことはございません」
「ともかく急げ」
 ちょうどこの時、町の角に自身番があったのを紙屑買いが見かけて、突然に大きな声、
「泥棒!」
「ナニ!」
 七兵衛が首筋《くびすじ》を締め上げると、紙屑買いは苦しい声を張り上げて、
「旦那方、こいつは泥棒でござります、泥棒、泥棒」
 自身番に詰めていたもの、今の火事騒ぎで通りかかったもの、こちらへ飛んで来るから七兵衛は、紙屑買いを突き放して人混《ひとご》みの中へ姿を隠してしまいます。

 お松がはたして京都へ売られたものならば、七兵衛の足は直ぐに京都へ飛ぶであろう、七兵衛がその気で歩き出した時は、朝江戸を出て、その夜は京都の土を踏むことであろう。
 それとは関係なく、机竜之介が落ち行く先もまた京都であるとすれば、宇津木兵馬の追って行くところもまた京都でなければならぬ。
 ことに芹沢、近藤、土方ら、新徴組が数を尽して向うところも京都警護の役目である。

         十四

 青梅街道《おうめかいどう》をトボトボと歩いて行くのは与八です。
 背には郁太郎《いくたろう》をおぶって、手には風呂敷包を紐《ひも》で絡《から》げて提げ、足は草鞋《わらじ》を穿《は》いて、歩きながら時々涙をこぼしています。
 与八の身になっても意外のことばかりで、お松をつれてこの街道を帰るつもりであったのが、一夜のうちにこんなことに変ってしまったのです。
「おお、与八じゃねえか」
「ああ太郎作《たろさく》さん」
 畑の中で仕事をしている知合いの百姓。
「江戸から帰ったのかい」
「うん」
「儲《もう》かったかい」
「儲からねえ」
「そりゃどこの子だい、お前の子じゃあるめえ」
「俺の子じゃあねえよ」
「拾いっ子かい」
「拾いっ子だよ」
「ああお土産《みやげ》を持ってるな与八さん、そのお土産をここへ分けて行けよ」
 与八は情けない面をして包みに眼を落しながら、
「こりゃお土産じゃねえよ」
 この包みにはお浜の遺髪が入っているのです。
「太郎作さん、俺《おら》が水車《くるま》は大丈夫かえ」
「ああ大丈夫だよ」
「水で突《つ》ん流されるようなことはなかったかい」
「うん、そんなことはねえ」
「さよなら」
 与八はスタスタと出かけます。
 御岳《みたけ》の山も沢井あたりの山も大菩薩の方も、眼の前に連《つら》なっています。与八はこれを見るとまた悲しくなって、そっと後ろの郁太郎を振返ると、子供は無心に寝入っている。ぼんやり立ち止まっては、提げていたお浜の黒髪を包んだ風呂敷に眼が落ちると、ひとりでに涙がこぼれます。与八は善いことをしては、いつでもそれが悪い結果になる。あれもこれもみんな自分が馬鹿だから。これからは罪滅《つみほろ》ぼしに多くの人の追善《ついぜん》をはかり、かたわらこの子を育て上げて立派な人にして申しわけを立てねばならぬ。与八には人を怨《うら》むという考えがなくて、一も自分が悪い、二も自分が悪いで通って行くのです。
「俺《おら》の大先生《おおせんせい》に拾われたところはここだ」
 与八はその昔、自分が拾われたというところへ来て一休み。
     ―――――――――――――
[#ここから2字下げ]
ちちははの めくみもふかき こかはてら
ほとけのちかひ たのもしきかな
[#ここで字下げ終わり]
     ―――――――――――――

         十五

[#ここから4字下げ、罫囲み]
東海道、関《せき》
江戸へ百六里二丁
京へ十九里半
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]
 伊勢の国|鈴鹿峠《すずかとうげ》の坂の下からこっちへ二里半、有名な関の地蔵が六大無碍《ろくだいむげ》の錫杖《しゃくじょう》を振翳《ふりかざ》し給うところを西へ五町ほど、東海道の往還《おうかん》よりは少し引込んだところの、参宮の抜け道へは近い粗末な茶店に、七十ばかりになるお爺《じい》さんが火縄《ひなわ》をこしらえながら店番をしていると、
「許せ」
 上りの客はこの宿《しゅく》で、下りの客は坂の下あたりで宿《やど》をきめてしまったと思われる時分、この茶店へ飄然《ひょうぜん》と舞い込んだのは一人の旅の武士《さむらい》であります。
「おいでなさいまし」
 老爺《おやじ》は火縄の手を休めて腰を立てると、武士は肩にかけた振分けの荷物を縁台の上に投げ出して、野袴《の
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