しい手紙が三本。お浜はそっとその一つを手に取って見ると、それは宇津木兵馬からの果《はた》し状《じょう》でありました。
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「武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで……」
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 お浜は読み去って宇津木兵馬と記された署名のところに来て、はじめて万事の合点《がてん》がいったのであります。
 殊勝《けなげ》なこと、こうも立派な果し状を人につけるようになったとは。自分の知ったのは十三四の可愛ゆい兵馬、それがまあ……それにしても、やっと十六か七、これまでには相当の修行も積んだことではあろうけれど、何というても竜之助の腕は豪《えら》いもの、刀を合せれば竜之助の酷《むご》い太刀先に命を落すは知れたこと。お浜は一途《いちず》に兵馬がかわいそうです。
「うーん」
 またしても魘《うな》される竜之助の声、兵馬を斬って血振《ちぶる》いをするのかとも想われる。
「兵馬どのが不憫《ふびん》じゃ」
 お浜の手がまたも懐剣へさわる。
 お浜は自分が死ぬ前に――竜之助を殺す――罪の二人が共死《ともじに》をすれば可愛らしい兵馬が助かる。お浜の決心は急速力で根強く、ついにここまで進んで来ました。
 果し合いを明朝に控えて、ともかくも眠っていられるだけの余裕《よゆう》が竜之助にはあるのです。
 衰えたりといえども剣を取っては人を眼中に置かぬ竜之助、僅かの間に一寝入りして気力を養っておこうと横になったけれども、この竜之介の気は疲れています。
 夜な夜な魘《うな》されたり、歯を噛んだり、盗汗《ねあせ》をかいたりすることは、かの新坂下の闇討に島田虎之助の働きを見てからであります。寝ても起きても島田の面《かお》つき、立って行く姿、坐っている態度、それが竜之助の眼先にちらついて離れることがありません。
 それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が衣紋《えもん》の折目正しく一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いっちゅう》の香《こう》を焚《た》いて端坐しているところへ、自分は剣を抜いて後ろから覘《ねら》い寄る、刀を振りかぶると前を向いていた島田が忽然《こつぜん》とこっちへ向く、横に廻って突っかけようとすると、いつか島田はそっちを向いている、焦《いら》って躍《おど》りかかろうとすると、島田の前に焚かれた香の煙が一直線に舞い上って、その末端がクルクルと廻って自分の面に吹きかけて来る。竜之助、その煙を払いながら太刀をつけて島田の周囲をグルグル廻っているうちに、眼が眩《くら》んで鼻血が出て、そこへ香の煙が濛々《もうもう》と捲《ま》いて来て息が詰まる。その時にヒヤリと自分の首筋に冷たいもの。
「やッ何者! 誰だ!」
 夢を破られた竜之助、パッと跳《は》ね起きてむずと押えたのは和《やわ》らかい人の手、その手首には氷のような白刃《しらは》が握られてありました。これは夢ではない、たしかに現実。
「やあ、浜ではないか」
 竜之助の上から乗りかかって、彼の首に短刀を当てたのは、現在の自分の妻の仕業《しわざ》でありました。
「何をする、気ちがいめ」
 竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと蹴倒《けたお》すと、お浜は向うの行燈《あんどん》に仰向《あおむ》けに倒れかかって、行燈が倒れると火皿《ひざら》は破《こわ》れてメラメラと紙に燃え移ります。
 蹴倒されたお浜は、むっくりと起き直るや、前に用意して明けておいたと見える表の戸から外の闇へ転《ころ》げ出してしまいました。
「憎い女!」
 お浜の倒した行燈の火はみるみる障子に移ります。これを踏み消しておいて竜之助、刀を取って同じく表の闇へ飛び下りる。
 家の中も真の闇。その中では郁太郎が咽喉《のど》の裂けるばかりに泣いている。
 お浜はどこへ行った。

 闇とは言いながら、もう夜明けに間もない時ですから東の空は白《しら》み渡っていました。神明《しんめい》から浜松町へかけての通り、お浜の駈けて行く後ろ影。
 増上寺三門の松林の前まで追いかけて、
「待て!」
 お浜の襟髪《えりがみ》は竜之助の手に押えられて、同時にそこに引き倒されたのであります。
「放して下さい」
「浜、おのれは兵馬に裏切りをしたな」
「早く殺して下さい――」
 殺したところで功名《こうみょう》にも手柄《てがら》にもならぬ。のぼりつめた時にも冷静になり得る竜之助、お浜の取乱した姿を睨《にら》んでいる。
「竜之助様、わたしを殺して、どうぞお前も殺されて下さい」
 面《かお》と面とを合せれば、いくらか白み渡った空ですから、見てとることもできる通り、お浜はもう放せの助けろのと騒ぐ峠は越して、言葉にも相当の条理がある。
「わたしもお前様におとなしく殺されて上げますから、お前様もどうぞ素直《すなお》に兵馬の手にかかって殺されて下さい、そうすれば、あれもこれも帳消し……罪ほろぼしとやらになりましょうから。ねえ、竜之助様」
 御成門外《おなりもんそと》で人の足音、増上寺の鐘。
「人殺し――」
 竜之助はついにお浜を殺してしまいました。

         十一

「あの声は――」
 今の絶叫を聞咎《ききとが》めたのは、御成門外で駕籠《かご》を捨てた宇津木兵馬の一行です。
「人殺しと聞えた」
 介添《かいぞえ》に来た片柳伴次郎が小首を傾ける。
「たしかにあの松原の中」
 兵馬は松原の木《こ》の下闇《したやみ》を見込む。
「見届けて来ますべえか」
 提灯《ちょうちん》を持った与八が松原の中へと進んで行く。松原の中へ入りこんだ与八、松の木にバッタリ、
「あ痛《いて》え」
 額《ひたい》を押えてみると、ぷんと血の香《か》。
「はて……」
 提灯を差しつけると、そこの松の木の根に人がある。
「えッ、人が――」
 それは女、胸のあたりからベットリと土にまで流れた血。
「皆さん、女が殺されている」
 大事の前、それでも人の一命と聞いて見過ごすわけにはいかない。
「ああ、酷《むご》たらしい殺され方」
「それ、血が袴《はかま》の裾《すそ》に」
「傷はどうじゃ」
「胸を一突き」
「もっと提灯を近く」
「ああかわいそうに。乳の下を突かれたのかね」
 提灯を突きつけてオドオドしていた与八は、
「おや、なんだか見たことのあるような女衆だ」
 与八は死人の面《かお》に自分の面を摺《す》りつけるようにして、
「もし……この女衆は……お浜さま……」
 不安の色で兵馬を見上げて、
「兵馬様……お前様もよくこの女衆の面を見て下さいまし、気のせいか、文之丞様の奥様に似てござる」
「ナニ、姉上に?」
 兵馬は附添の片柳と水島とを押し分けて、
「姿は変れどよう似てござる、念のため与八どの、この女の持物はないか、調べてくりゃれ」
「ここに短い刀が……書付が……あれ、こっちにも」
 与八が拾って兵馬に手渡したのは、意外にも自分の手から机竜之助に送った果し状でありました。
 次に受取った一通、
「なに、宇津木兵馬殿へ、はまより?」
 これはお浜の手ずから書いたもので、そして兵馬に宛てた手紙。

 机竜之助は果し合いの場へ出て来ませんでした。
 果し状をつけられながら逃げるというはこの上もなき恥辱。ことに人を殺せば血を見るはずの竜之助がこの場合に、逃げ去るとは甚だ合点《がてん》のゆかぬことです。
 しかしながら約定《やくじょう》の時刻にも赤羽橋へ来るということもなく、新銭座の家へ行って見れば、家の中はさんざんであるのに、子供が一人、声を涸《か》らして泣いているばかり。手を分けて行方《ゆくえ》をさがしたけれどもわからず、これがためにその日の果し合いは中止。宇津木兵馬は残念の余り、張り詰めた勇気も一時に砕くるの思いでしたが、ここに唯一《ゆいつ》の手がかりというのは、机竜之助が芹沢鴨に宛てた書面一通を発見したことで、その中に、
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「兵馬を斬つて後、拙者は予《かね》ての手筈《てはず》の通り京都へ立退き申すべく……」
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という文言《もんごん》です。
 この手紙を見れば、竜之助が今日の果し合いに立合う覚悟は勿論《もちろん》のこと、立合えば必ず兵馬を斬ることに自分できめ、兵馬を斬れば京都へ飛ぶその手筈まで整うていたものと見えます。それほどの覚悟が出来ながら逃げるとは何事であろう。これは誰にもちょっとわかり兼ねたところであるが、お浜を殺したのも竜之助であろうとは――誰人にもそのように想像されるのでありました。

         十二

「どうも永らく御無沙汰を致しました」
 妻恋坂のお絹の宅へやって来たのは珍らしくも裏宿七兵衛。
「これは珍らしい七兵衛さん、どうしたかと心配していました」
「つい百姓の方が忙がしいもんでございますから。それに、骨休めを兼ねてお伊勢参りをして来たものでございますから。これはわざ[#「わざ」に傍点]っとお土産《みやげ》の印《しるし》」
「それはお気の毒な。お前さん方は、ほんとに羨《うらや》ましい身分ですね、稼《かせ》いでおいてはお伊勢参りだの、江戸見物だのと気晴らしができますから」
「へえ、どう致しまして」
「並《なみ》のお百姓では、そんなにチョイチョイ出て歩けるものではありません」
 お絹にこう言われて七兵衛は苦笑《にがわら》い。
「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か反物《たんもの》でも商《あきな》いをなさるの」
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹《かいき》の上等を少し見せてもらえまいかね」
「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」
 七兵衛は話向きを改めて、
「お松の方はどうでございましょう」
「ああ、その事、その事。それはわたしの方からお前さんに尋ねたい。飛脚《ひきゃく》を立てようかと思っていたところですよ」
「へえ、お松がどうぞ致しましたか」
「あの子はお前、駈落《かけおち》をしてしまいましたよ」
「駈落を?」
「それも御主人の若様と逃げたとか、然《しか》るべき男と逃げたというんならお話にもなりますけれど」
「いったい、誰と逃げました」
「誰といってお前、山出しの馬鹿と逃げたんだもの、話にも何もなりやしない」
「馬鹿と……」
「お前さんには最初から話さないとわからないが、二月《ふたつき》ほど前にあの子を、わたしが四谷の神尾様という旗本のお邸へ御奉公に上げましたところが、そのお邸に与太郎とか与八とかいう馬鹿がいて、どうでしょう、お松はその馬鹿に欺《だま》されて夜逃げをしてしまいました」
「四谷の神尾様というのは、あの伝馬町の神尾主膳様のことでございますか」
「そうです。その神尾様、三千石のお旗本なんだから、首尾よく御奉公して殿様のお気に入ればどんなに出世するかわからないのに、人もあろうに風呂番をしていた与太郎という馬鹿と駈落《かけおち》するなんて、わたしも呆《あき》れ返ってしまった、あんな世話甲斐《せわがい》のない子というはありやしない」
「それほど馬鹿な女とは思いませんでしたが、いったい、どっちの方へ逃げましたか、手がかりはございませんか」
「いっこう知れません、いろいろ手配《てはい》をして探してみましたけれども、どうしてもわかりません。お前さんの方へも飛脚を立ててみようとしましたけれども、殿様がおっしゃるには、そんな腐った奴を騒ぎ立てて探すには及ばないと、それなりにしてありますが、わたしの身になると、殿様には面目がないし、自分では腹が立つし……」
「そういうわけならば、ひとつ私も探してみましょう。あのお松とても生来《しょうらい》が、それほど馬鹿ではなかったはずですから、尋ね出して聞いてみたら何か事情があるかも知れません」

         十三

 七兵衛が最初この家へ入った時から見え隠れについて来て、今まで路地内《ろじうち》や表通りをうろうろしていた一人の紙屑買《かみくずか》いが、いま七兵衛が出かけると、またそのあとをついて行きます。
 七兵衛は妻恋坂から本
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