ばかま》の裾《すそ》をハタハタと叩《たた》き、
「老爺《おやじ》」
「はい」
「汲みたての水を一杯|所望《しょもう》」
「はいはい、汲みたての水、よろしゅうございます、うちの井戸は自慢ものの上水《じょうみず》でございまして」
 老爺が水を汲みに裏へ廻る時、件《くだん》の武士は縁台に腰を下ろしていたが、頭にいただいた竹皮笠《たけかわがさ》は取らず、細く胴金《どうがね》を入れた大刀を取って傍《わき》に置き、伏目《ふしめ》になった面《かお》を笠の下からのぞくと、沈みきった色。
 机竜之助はともかくも、京都をめざしてここまで落ちて来たものです。
 老爺が手桶《ておけ》に汲んで来てくれた水を、竹の柄杓《ひしゃく》で一口飲んで、余水《のこり》を敷居越しに往還へ投げ捨てて、柄杓を手桶に差し込んでホッと息をつく。
「お茶をいかがでございますな」
 老爺が念を押してみると竜之助は首を左右に振る、火鉢をすすめても煙草をふかす様子もないし、詮方《せんかた》なく老爺は再びもとの座に戻って火縄にかかろうとすると、
「草鞋《わらじ》を一足くれぬか」
「はいはい」
 吊《つる》された手づくりの草鞋一足を引き抜いて、
「峠を三度上り下りしても大丈夫、金《かね》の草鞋というのでございます」
 老人の癖《くせ》は自慢である、水を飲ませるにも草鞋を売るにも、すべて自慢がつき纏《まと》う。
「それはそうとお武家様、今から草鞋を穿《は》き換えていずれへござらっしゃる」
 竜之助の穿き換える足許《あしもと》を見ながら、老爺が不審を打ったのは、この宿《しゅく》で泊るにしても、坂下まで行くにしても、まだ持ちそうな草鞋を捨てるのは早い。
 竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は手持無沙汰《てもちぶさた》で、
「降らねばいいに」
 軒端《のきば》から天を仰いで独言《ひとりごと》。
 なるほど、今日は朝から陰気臭い日和《ひより》であった、関の小万《こまん》の魂魄《こんぱく》が、いまだにこの土《ど》にとどまって気圧を左右するのか知らん、「与作思えば照る日も曇る」の歌が、陰《いん》に響けば雨が降る。
「今夜はこの宿でお泊りが分別《ふんべつ》でござりましょうがな」
 老爺は忠告とも独言ともつかないようなことを言って、また坐り込んで火縄にかかる。
 草鞋を穿き終った竜之助は、笠越しに空を見上げているところへ、
「さあ御新造《ごしんぞ》、ここが抜け道の茶屋で」
 威勢よく店前《みせさき》へ着いた一|挺《ちょう》の駕籠《かご》、垂《たれ》を上げると一人の女。
「お浜!」
 竜之助は僅かにその名を歯の外には洩《も》らさなかったけれども、この女の名が浜でなければ不思議である。それとも竜之助の眼には、すべての女の面《かお》がお浜のそれに見えるのかも知れません。
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
 竜之助は眼をつぶってその姿を見まいとした、耳を抑えてその声を聞くまいとした。あれもこれも生き写し。
 女は駕籠から出て、
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
と言いながら帯の間を探ってみて、ハッと面の色を変え、慌《あわただ》しく懐《ふところ》や袂《たもと》に手を入れて、
「まあどうしましょう、ちょっと駕籠の中を」
 隅々《すみずみ》を調べてみて当惑の色はいよいよ深く、
「駕籠屋さん、済みませんけれど」
 二人の駕籠屋は突立ったなり、左右から女の様子をながめていたが、
「何だえ御新造」
「連れの人がほどなくこれへ見えますから、少しのあいだ待っていて下さいな」
「待っていろとおっしゃるのは?」
「たしかに持っていたはずの紙入《かみいれ》が見えませぬ故」
「何だ、紙入がねえと?」
 女の面をジロジロと見て、傍《かたわら》に敷き放してあった蓙《ござ》の上に尻を乗せたのは、この宿では滅多《めった》に見かけないが桑名《くわな》から参宮の道あたりへかけてはかなりに知られた黒坂という悪《わる》でしたから、茶店の老爺は気を揉《も》んでいると、
「そいつは大変だ、紛失物《なくなりもの》をそのままにしておいたんじゃあ、この黒坂の面《かお》が立たねえ、悪くすると雲助《くもすけ》仲間の名折れになるのだ、なあ相棒《あいぼう》」
「うん、そうだ」
「それじゃあ、もういちばん駕籠に乗っておもれえ申して、お前様に頼まれたところからここへ来るまでの道を、もう一ぺんようく見きわめた上、宿役《しゅくやく》へお届け申すとしよう。相棒、時の災難だ、もう一肩《ひとかた》貸してくんねえ」
「合点《がってん》だ」
「ああもし、それほどのものではありませぬ、ホンの僅かばかりですから……どうも困りましたねえ」
「お前さんも困るだろうが、こっちも商売の疵《きず》になる、さあ、どうかお乗りなすっておくんなさい」
 手を取って無理にも駕籠へ押し込もうとするから、女は困《こう》じ果てて、
「それでは駕丁《かごや》さん、こうしましょう……」
 艶々《つやつや》しい頭髪《かみ》の中から抜き取ったのが、四寸ばかりの銀の平打《ひらうち》の簪《かんざし》。これが窮したあげくの思案と見えて、
「これを取っておいて下さい」
「そんな物は要《い》らねえ」
 黒坂は平打の簪をグッとひったくって、
「さあ、もう一ぺん駕籠に乗り直しておくんなさいまし」
「駕丁さん、駕丁さん」
 火縄の老爺は見兼ねて膝を叩《たた》いて立ち上って来ました。
「まあまあ」
 割って出たけれども、さしあたり仲裁の言葉に行詰《ゆきづま》って、
「いいかげんにするがいいやな」
「何がいいかげんだい、爺《とっ》さん」
「女衆《おんなしゅう》にあんまり言いがかりを附けねえことだ」
「爺さん、言いがかりというのはどっちのことだ、引込んでいな」
「あれ、どうしましょう」
「よ、もう一ぺん乗り直しておくんなさいまし」
 女の腕を押えて、片手は帯のところへかけて押せば、よろよろと駕籠の縁《へり》へ押しつけられます。
「あれ、堪忍《かんにん》して下さい」
 こうなると机竜之助、たとえ血も涙も涸《か》れきった上のこととは言え、なんとか言葉をかけねばならぬ場合に立至ったのです。
「駕丁《かごや》――駕丁」
 黒坂が振返って見ると、今まで気がつかなかった旅の武士《さむらい》が一人、笠越しにじっとこっちを見据《みす》えています。
「何ぞ御用ですか」
「駕籠賃は拙者が立換えるによってこれへ出ろ」
「へえ」
 連れというのはこの武士のことであろうかと、黒坂はそう思って竜之助の傍《そば》までやって来て、
「ナニ、この御新造《ごしんぞ》がおかし[#「おかし」に傍点]なことを言うもんですから」
 敷居の上へ腰を卸《おろ》して煙草入れを引抜き、太い煙管《きせる》を取り出して口にくわえ、叺《かます》を横にしてはたいてみる。
「いくらになる」
「へえ、亀山から一里半の丁場《ちょうば》でござい」
「よろしい」
 竜之助は財布《さいふ》を取り出して、小銭百文をパラリと縁台の蓙《ござ》の上へ投げ出して、その取るに任せると、黒坂は横目で、
「有難うございます」
 その小銭はまだ手にだも触れないで、女の方を流し目に見て、
「御新造、酒手《さかて》の方をいくらか……旦那に話してみていただきてえもんでございます」
 女もまたこの時、竜之助のあることを初めて知って、いかにも気の毒そうに、
「そんな無理なことを言うものではありませぬ」
「無理とはどっちの言うことだ御新造、いったいお前様は亀山のどこからおいでなされた、お前様の駕籠に乗り方があんまりあわただしいから、ずいぶん酒手を貰う筋があると睨《にら》んだのに何が無理でえ」
「まあ、どうしましょう」
 女はわーっと泣き出すと、竜之助はすっくと立って物も言わずに黒坂の横面《よこつら》をピシーリ。
「あ痛ッ」
 黒坂は何としたか一度ひっくり返って、その次に居直るかと思えばそうでもなく、雲を霞と逃げて行きます。
 黒坂の逃げたのは、竜之助を巡廻の役人とでも思ったのか、それとも敵《かな》わじと見て仲間を呼んで仕返しに来るつもりでもあろうか。
「なんともお礼の申上げ様がござりませぬ」
 女は乱れた衣紋《えもん》を繕《つくろ》うて竜之助の前に心からの感謝を捧げる。
「お怪我《けが》はござらぬか」
「いいえ、別段に怪我は致しませねど……あなた様がおいで下さらねば、どのようになりますることやら」
「悪い駕丁《かごや》どもだ」
 竜之助は再び縁台に腰を下ろす。礼を言う女の面《かお》、潤沢《じゅんたく》な髪を島田に結うた具合、眼つきに人を引きつけるところ、首筋《くびすじ》から背へかけてすっきりした……どう見てもお浜です。
「おおお豊《とよ》さん、これに見えてか、えろうわたしは遅れましたわいな」
 こう言いながらこの場へ駈け込むようにしたのは、旅の姿はしているがつやつやしい優男《やさおとこ》。
「真《しん》さん、わたしはひどい目に遭《あ》いましたわいな」
 女は男の姿を見かけるとオロオロと泣きかけたので、
「お前は泣いている、まあ、どうしたものじゃいな」
 男は近寄って女の背を撫《な》で、髪の毛までも掻き上げてやり、他《はた》の見る眼も親切にいたわります。
「悪い駕籠屋に難題をかけられて危ない目に遭うところを、これにおいでのお武家様に助けていただきました」
「おお悪い駕籠屋に……わしもそれを心配していた……これはまあ、いずれのお方様やら、御親切に」
 若い男は竜之助の方に向き直り、倉卒《そうそつ》の場合ながら折屈《おりかが》みも至って丁寧であります。
 この若い男の語るところによれば、男は京都の者で女は亀山、二人は親戚の間柄で、一緒に伊勢参宮をするとて、この宿で待ち合わせる約束であったとのこと。
 竜之助は、二人がこもごも申し述べるお礼の言葉を聞き流して、
「おのおの方は早くここをお引取りなさい、また悪者が立帰ると事が面倒《めんどう》じゃ」
「左様ならば」
 男は女を促《うなが》して、竜之助には改めて慇懃《いんぎん》にお辞儀をして、手を取り合わぬばかりに欣々《いそいそ》として立ち行く二人の後ろ影を、机竜之助は暫らく見送るともなく見送っておりました。
「おお、要《い》らざることに暇取《ひまど》った、老爺《おやじ》、茶代を置く」

         十六

 坂の下へ着いた時分には、坂も曇れば鈴鹿《すずか》も曇る、はたしてポツリポツリと涙雨です。
 この雨が峠へかかれば雪になる。雨になり雪にならずとも夜になるにはきまっている。鬼の棲《す》むちょう鈴鹿の山を、ことさらに夜になって越えなくとも、坂の下には大竹小竹《おおたけこたけ》といって、間口十八間、奥行これに叶《かな》う名代《なだい》の旅籠屋《はたごや》もあるのだから、竜之助一人を泊めて狭しとするでもなかろうに、他目《わきめ》もふらず、とうとう坂の下の宿を通り越してしまいました。これから峠へかかって三里、茶屋も宿屋もないものと思わねばならぬ。さては夜道をするつもりで草鞋を穿き替えたものと見える。
「雨か」
 竜之助が立ち止まって天を仰いだ時は、鈴鹿の山も関《せき》の雄山《おやま》も一帯《いったい》に夜と雨とに包まれて、行手《ゆくて》に鬱蒼《うっそう》と一叢《ひとむら》の杉の木立、巨人の姿に盛り上って、その中からチラチラと燈明《とうみょう》の光が洩《も》れて来る。
 身はいつか鈴鹿明神の鳥居の前から遠からぬところに立っていたのであります。
「ああ雨か」
 この雨は、竜之助が坂の下の宿に入る時分から降り出した雨です。いま見れば笠《かさ》も合羽《かっぱ》もビッショリ、それを気づかず、ここまで来て「雨か」は甚だ遅い。
「あの客人はどこへ行かんすやら」
 大竹小竹の宿引《やどひき》が不審の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったのも気がつかず、一文字にここまで来て、
「雨では山越しも困る」
 鈴鹿明神の森の中を見込むと、鳥居の右へ向っては峠の山道、鈴鹿御前の社と内外宮《ないげぐう》とが棟を並べた中に、春日形《かすががた》の大燈籠の光も雨に濡れている。左手にはそそり立つ大
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