とけば一人で帰るよ」
「やーい子供、踊れ踊れ、踊りの上手な奴にこの面こをやるぞ、そら、こんなふうに踊れ」
 面をかぶったまま章魚《たこ》のような恰好《かっこう》をして踊り出したので、往来に見ていたものが一度に吹き出します。竜之助はそれをしお[#「しお」に傍点]に振り切って新黒門の方へ行く。

 竜之助が新黒門を広小路の方へ廻ろうとする時分に、すれちがった人があります。竜之助の方では気がつかなかったが、先方ではふいと歩みをとどめて、二三間行き過ぎた竜之助の姿を見送っている。それは宇津木兵馬でした。
 兵馬は竜之助に会って、「ハテ見たような人」と思います。しかし急に思い出せなかったので、空《むな》しく見送ったばかりでなお思い出そうとつとめたが、一町ほど隔たった後、
「あ、それそれ、いつぞや島田先生の道場で試合をした人」
とようやく考えついて、
「たしか江川太郎左衛門配下というたが……妙な剣術ぶりであった」
 あの時の試合、例の竜之助が音無しの構えの不思議であったことを兵馬は思い返して、
「先の勝ちで籠手《こて》を取られた、いかにも凄い太刀先に見えた、もう一度あの人と立合をしてみたい」
 兵馬は胸にこう考えながら、
「あのくらいに出来る人なれば相当に名ある者に相違あるまい。はて、あの時は何と名乗った……おおそれ、吉田なにがしというたが……吉田なにがしと申す剣客はあまり聞かぬ……仮名《けみょう》ではあるまいか」
 兵馬はうつらうつらと歩みつつ、
「見受けるところ、浪人のようにもあるし……」
 こう考えてきて、何やら穏やかならぬ雲行きが兵馬の胸の中に起り出し、
「待て――机竜之助が得意の手に音無しの構えというのがあると――あの吉田なにがしの手は――あれは音無しの構えではあるまいかしら。音無し、むむ、そう思えばいよいよ思い当る。あの年頃は三十三四、竜之助、竜之助……あれが兄のかたき机竜之助ではあるまいか」
 兵馬の心を貫《つらぬ》く暗示。なんらの証拠《しょうこ》があるわけではないが、こう思い来《きた》ると、今すれ違ったのがどうも竜之助らしい。兵馬は踵《きびす》を廻して黒門の方へ取って返そうとすると、
「わーッ」
 また横合いから飛び出して兵馬の前に倒れたのは、かの道庵先生です。
「やあ失礼失礼」
 そのあとをつづいた子供らが、
「おじさん、面《めん》をおくれよう」
 いい年をした男が、ひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]の面をかぶって来たから兵馬も笑い出して、それを避ける途端《とたん》に道庵はころころと往来へ転がってしまいました。
「やあ、先生が倒れやがった、起せ起せ」
 子供らは寄ってたかって道庵を起し、
「お家へ担《かつ》いで行こう、わっしょ、わっしょ」
 この騒ぎで宇津木兵馬は机竜之助の姿を見失って、その日はそれで帰りました。

         五

 お松の病気も大分よくなりました。よくなったとは言うものの、半月あまりも寝たことですから、その間の与八の骨折りというものは大したものでありました。
 伯母のお滝は例の如く空《から》お世辞《せじ》を言っては金を借りて行き、その金を亭主の小遣銭《こづかいせん》にやったり自分らの口へ奢《おご》ったりしてしまったので、お松の病気の癒《なお》った時分には、持っていた金はほとんど借りられてしまったのです。
 お松は蒲団《ふとん》の上へ起き上って乱れ髪を掻《か》きあげていますと、お滝がまたやって来て、
「お前、ようやく癒ってよかったねえ」
「はい、おかげさまで」
「これというのも、わたしが湯島の天神様へ願《がん》がけをして上げたのと、それから道庵先生のおかげだよ」
「はい」
「それから今日はお前、天神様の御縁日《ごえんにち》だからお礼詣《れいまい》りに上らなくては済みませんよ」
「はい」
「近い所だけれども、まだ無理をするといけないから駕籠《かご》をそいって上げるよ」
「いいえ駕籠には及びません、歩いて参りませぬと信心になりますまいから」
「そんなことがあるものかね、歩いて行こうと駕籠で行こうと信心ごころさえ確《たし》かならねえ……それはそうとお前」
 お滝の言葉が改まる時は、そのあとに来るのはいつも金のことですからお松はヒヤリとすると、案《あん》の定《じょう》、
「道庵先生への薬礼《やくれい》はどうなさるつもりだえ」
「伯母さま、実を申し上げれば、今のところ……」
「もうお金は無いのかい」
「ええ……」
 面《かお》を赧《あか》らめていると伯母は、
「わたしの方でも、お前にだいぶ借金がありますが、今々というわけにもいかず、困ったねえ」
 困った面をして、
「道庵先生はああいう変人だから、少しぐらい延びたって何とも思いなさりゃしますまいが、それならそのように、なおさら早くお礼をしないと。それにお前だって、これから身を定めるには物要《ものい》りがつづきますからね、何とかしなければ」
「左様《さよう》でございますね」
「あのね、あんまり立入ったことだけれども、お前なにか金目《かねめ》の物を持っていやしないかね、売るとか質に入れるとかして、纏《まと》まったお金の手に入るようなものを」
「それは、どうも」
「あれは何だね、お前あの手文庫の中にあったもの、錦の袋に包んだ短刀のようなもの、あれはお金になりそうだね」
 お滝が早くも眼をつけたのは、ずっと昔、お松が裏宿《うらじゅく》の七兵衛から貰った藤四郎の短刀です。
 お松は返事に困って、この伯母という人の性根《しょうね》がどこまで卑《いや》しくなったかと、それを悲しむのみであります。
 お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して鞘《さや》を払ってながめました。
 暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に耽《ふけ》っていると、
「これお前様《めいさま》、心得違えをしてはなんねえ!」
 後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。
「飛んでもねえこんだ、刃物《はもの》なんぞを持って」
「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」
 お松は、与八の驚き方があまりに大仰《おおぎょう》なのでおかしくなったのですが、与八はまた、お松が永《なが》の病気から身の上を悲観して自害でもするつもりと勘違いをしているので、お松の手から短刀をもぎ取って、
「危ねえ、こりゃ俺《おら》が預かる」
 与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、
「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」
 お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、
「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」
「お前様これをお売りなさるのか」
「売ってしまいましょう」
「それでも大切の品だんべえ」
「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの入用《いりよう》にしたいと思います」
「そうか」

 与八はお松から頼まれて、御成街道の小田原屋という武具刀剣商の店へ行ってその短刀を見せると、物言わず三十両に価《ね》をつけられました。たかだか二両か三両と思っていたのに、三十両とつけられて与八は暫らく返答ができないでいると、番頭は畳みかけて、三十三両と糶《せ》り上げ、与八に口を開かせないで、その金を押しつけるようにして短刀と引換えてしまいました。
 与八はその金を懐《ふところ》にして佐久間町の裏店《うらだな》へ帰って来て、
「みどりさん、いま帰った」
「おお与八さん、御苦労でした」
 見れば、みどりは、いつのまにか髪を島田に取り上げて、燈火《あかり》の影にこちらを見せた風情《ふぜい》は、今まで永く患《わずら》っていたのとうつり変って、与八の眼をさえ驚かすくらいの美しさに見えました。
「思いのほかいい値《ね》に売れました、この通り三十三両」
「まあ、あの短刀がそんなに」
「あんな短けえもので三十両もするだから、よっぽどいい品に違えねえ」
「それでは与八さん、御苦労ついでに道庵先生まで行ってお礼をして来て下さいな」
「ああいいとも」
「御飯《ごはん》の仕度が出来たから一緒に食べましょう」
「そうかい、お前様が仕度をして下すったかい」
 二人は膳《ぜん》を並べて、
「さあ与八さん、お出しなさい」
「どうも済みましねえ」
 ここで旅費も出来たから、二人はかねての望み通り沢井へ行って、与八はもとの水車番、お松はその傍で襷《たすき》がけで働くこと、その楽しい生活を想像しながら話し合って、食事を終り与八は、
「そんならお医者様へお礼に行って来るだ」

         六

「何だって、薬礼を持って来たって。薬礼を持って来たらそこへ置いて行きな」
 与八が訪ねて行った時、道庵先生は八畳の間に酔い倒れて、寝言《ねごと》半分に与八に返事をしています。
「先生、いくら上げたらいいだ」
「いくら? 十八|文《もん》も置いて行きねえ」
「十八文?」
 与八も変な面《かお》をして、
「半月もお世話になって十八文じゃ、あんまり安い」
「生意気なことを言うな、安かろうと高かろうとこっちの売物《うりもの》だ」
「先生、そんなことを言わねえで、本当の値段を言っておくんなさいまし」
「だから十八文でいいのだ」
「先生酔っぱらっていなさるからいけねえ」
「酔っぱらったって商売に抜目《ぬけめ》はねえ、早く十八文おいて帰れ」
「それじゃ済まねえ」
「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」
「それは先生が馬鹿だ、半月も診《み》てもらったり薬を飲ましてもらったりして、そのおかげさまで病人がすっかり癒《なお》って、そうしてお礼が十八文で帰れるか、よく考えてごらんなさい」
「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」
「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」
「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」
「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」
「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」
「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」
 与八はムキになって怒り出しました。
「俺《おら》、人の物を塵《ちり》一本でも盗んだ覚えはねえ、飛んでもねえことを言わねえ方がよかんべえ」
「盗んだに違えねえ」
 道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、
「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺《おら》が面《かお》が立たねえ」
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
 与八は飛びついて道庵の胸倉《むなぐら》を取りますと、
「この馬鹿野郎、わしに喧嘩《けんか》をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」
 道庵先生も与八の頭へ噛《かじ》りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。
 与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振《むしゃぶ》りついてみましたけれども、もともと悪気《わるげ》があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲《なぐ》ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。
 与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

         七

 与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
 呼んで
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