みたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
これも中ではことり[#「ことり」に傍点]とも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転《ひっこし》をしておしまいじゃないか」
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆《むすめしゅ》は駕籠でお出かけじゃないか」
「ちっとも知らねえ、俺《おら》そんなことはちっとも知らねえ」
与八は面《かお》の色を変えて唇を顫《ふる》わせる。
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
与八は呆《あき》れてホロホロと涙をこぼし、
「四谷のどこへ引越したんべえ」
声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散《いちもくさん》に表の方へ走り出しました。
与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘《ねら》うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。
「ああ兵馬さん」
せわしい中で立ち止まった与八。
八
夜《よ》が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛《とりまぎ》れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感《かん》が嵩《こう》じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過《あやまち》がなかったと立派な口が利《き》けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによく眼を醒《さま》して「それ見ろ」と叱《しか》ります。
竜之助は夜中になると、きっと魘《うな》されます。
お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相《ねぞう》を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄《すさま》じい唸《うな》りと歯を噛《か》む音、夜《よ》更《ふ》けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気《さむけ》がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀《あみだ》様か何かが煤《すす》けた表装のままで蜘蛛《くも》の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒《あば》れ廻っているからです。
それでもあまりにその音が仰山《ぎょうさん》なので、お浜は、
「しっ!」
嚇《おどか》してみました。
それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ枕許《まくらもと》へ落ちました。お浜は驚いて枕を上げて打とうとすると、度を失うた鼠は、お浜の乳房と、ちょうど抱いて寝ていた郁太郎の面《かお》の間へ飛びかかったのであります。
「あれ!」
お浜は狼狽《ろうばい》して払いのけようとする。いよいよ度を失うた鼠は、お浜の腹の方へ飛び込みました。
「あれあれ」
お浜は寝床からはね起きます。その途端《とたん》に鼠はポンと郁太郎の面の上へ落ちかかると、郁太郎は火のつくように泣き出します。
「おお、坊や、坊や」
お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に襖《ふすま》を伝わって天井の隅《すみ》の壁のくずれの穴へ入ってしまいましたが、郁太郎の泣き声は五臓から絞《しぼ》り出すようです。
「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」
お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に一痕《いっこん》の血。
「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」
お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を抱《かか》えて、片手を伸べて無二無三《むにむさん》に竜之助を突き起します。
「何事だ」
眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の身体《からだ》の手の触るるところが、水で漬《つ》けたような汗《あせ》であるのにも驚きました。
「よく見て下さいまし、坊やが鼠に噛《か》まれました」
「ナニ、鼠に?」
「はい、大きな鼠があの仏壇から出て、この中に潜《もぐ》りこんで坊やに食いつきました」
「どれどれ」
竜之助は起き上って、燈心を掻き立てて、郁太郎の身体を調べて見ると咽喉《のど》に一文字の創《きず》。別に深い創ではないが、そこから血がにじん[#「にじん」に傍点]で、蚯蚓《みみず》ぐらいの太さにダラダラと落ちて行くのです。
「咽喉を噛まれました」
お浜は狂気のように叫びます。
「大事はない、早く血を拭いて創をよく巻いてやれ」
竜之助はあり合せた晒木綿《さらしもめん》の断切《たちぎ》れを取ってやる。
「針箱の抽斗《ひきだし》に膏薬《こうやく》がありますから早く……早くして下さい」
「焦《せ》くなよ」
「まあ焦《じ》れったい、その右の小さい方の小抽斗《こひきだし》」
「これか」
「水でよく創《きず》を洗ってやりましょう、あなた、お冷水《ひや》を」
お浜は何もかも夢中で騒いでいます。ようやく水で拭き取った創のあとを洗ってやる、その間も郁太郎は苦しがって身をもがいて泣く。
「いいよ、いいよ、坊や、痛くはないよ、さあもう少し」
やっとのことで創を洗って、膏薬を貼《は》って晒《さらし》で首筋を巻きました。
「もう泣くのではありません、坊やは強いからね」
泣き止まぬ郁太郎を膝の上に、お浜自身も半ばは泣き声です。竜之助も、さすがに心配そうに郁太郎の面《かお》をながめていたが、そのうちに痛みが少しは退《ひ》いたのか、または声を泣きつぶしてしまったのか、郁太郎は母の乳房を抱えたなり少し静まってきたので、
「お医者様へつれて参りましょう」
「もう遅い、明朝《あした》のことにせい」
「いけません、手後《ておく》れになると大変ですから。それに、ほかの創と違って鼠に噛まれたのは、ことによれば生命《いのち》にかかわると申しますから」
お浜はこの真夜中に、郁太郎をつれて医者へ往こうと主張する。
「よし、そんならわしが一走り、医者を迎えに行って来る」
竜之助が医者を迎えに行ったあとでお浜は、
「にくい畜生《ちくしょう》だ」
鼠というやつの憎さが骨身に徹《とお》って、取捉《とっつか》まえて噛み切ってやりたい。お浜は鼠を呪《のろ》いつめて仏壇の方を睨《にら》めて歯噛《はが》みをする。
郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った丑三時《うしみつどき》で、しんしんと更《ふ》けてゆきます。天井ではまたしても鼠が走《は》せ廻る、その足音が「ざまを見ろ」というように聞える。
お浜は天井をまでも仇《かたき》のように見上げて、見下ろすと、痛々しい繃帯《ほうたい》が泣き疲れた郁太郎の繊細《かぼそ》い首筋を締めつけるもののように見えて、わけもなくかわいそうでかわいそうでたまりません。
「坊や、大切におし、咽喉《のど》はだいじだからね」
お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の面《かお》を見つめて、
「お前が万一《もしも》のことがあれば、このお母さんは生きていられないよ」
実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、麻疹《はしか》も軽くて済み、誰が見ても丈夫そうで、他人さえ可愛いらしかったくらいですから、お浜にとって、どうして可愛がられずにいられよう。
「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」
可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。
お浜は医者を待つ用意で寝衣を平常着《ふだんぎ》に着換えようとして、ようやく少し静まった郁太郎を、そっと蒲団の上に置こうとすると、郁太郎はまたひーと泣き出す。ハッとしてお浜はまた抱き直すと、さあ、それから、また泣き出して、もう声も涸《か》れきっているのに、涙ばかりをホロホロとこぼし、パッチリとあいた眼に、じっと母親の面《かお》を見据えて五体をわななかせる。
「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな怖《こわ》い面をして母さんを見るものじゃありませんよ」
お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は瞬《またた》きもせずに母の面のみ見つめていますから、
「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを苛《いじ》めるの、なんという因果だろうねえ」
お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、
「ああ罰《ばち》だ、罰だ、これがほんとの天罰というのに違いない」
投げ出すように郁太郎を蒲団《ふとん》の上に差置いたお浜の眼は、物に狂うように光っておりました。
お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。
我が子なればこそ、これほどのささやかな創《きず》に気も狂うほど心配するものを、今お浜が、
「ああ怖い」
と言って慄《ふる》え上った瞬間に眼前にひらめいた先《せん》の夫《おっと》文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期《さいご》を遂《と》げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨《うら》んだか。
お浜とても、今まで寝醒《ねざ》めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面《かお》に文之丞の末期《まつご》の色がある。天井で噪《さわ》ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風《びょうぶ》の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼《あおい》い面をして睨《にら》めている。蒲団の唐草《からくさ》の模様を見ると、その蔓《つる》がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫《な》で廻そうとしている。針箱の抽斗《ひきだし》からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚《さら》って行きそうでならぬ。
室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐《おそ》ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。
夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体《からだ》を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。
ちょうど有明《ありあけ》の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟《むね》に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際《まどぎわ》に立ちつくしているのでありました。
九
昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
枕許《まくらもと》を揺り動かすのはお浜の声。
頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封《
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