て女はなだめるように、
「どうと言うて真《しん》さん、今宵《こよい》はここへ泊って、明日はおとなしゅうお帰りなさるがお前のため、わたしのためでござんしょう」
「それが成るくらいなら……わしはこうしてここまで来はせぬわいな」
「そんなら、どうしようと言うの」
「それはお前の心を聞いての上」
「わたしの心はいま言うた通り」
「では、わしに京都へ帰れと言うの」
「それがおたがいの上分別《じょうふんべつ》」
「やと言うて、わしはもう京都へは帰られぬ」
「そんな駄々《だだ》を言うものではありませぬ」
「いやいやお前は何も知らぬ、わしが今日の身の上を知らぬ」
「今日の身の上というて、お前はやはり亀岡屋の跡を取る安楽な身分ではないか」
「それが違います、今の亀岡屋はお前の思うているような亀岡屋ではありやせぬ、わしの家は先月の十六日の夜に盗賊が入って……」
「あの、盗賊が?」
「軍用金じゃというて家の金銀は申すに及ばず、公儀よりお預かりの大切な品までもみんな奪って行きました」
「それは、ついぞ初めて聞きました」
「それに、わしが前からの身持ち、多分の使い込みが一時に現われて、ほんにもう立つ瀬がない」
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