かみいれ》が見えませぬ故」
「何だ、紙入がねえと?」
 女の面をジロジロと見て、傍《かたわら》に敷き放してあった蓙《ござ》の上に尻を乗せたのは、この宿では滅多《めった》に見かけないが桑名《くわな》から参宮の道あたりへかけてはかなりに知られた黒坂という悪《わる》でしたから、茶店の老爺は気を揉《も》んでいると、
「そいつは大変だ、紛失物《なくなりもの》をそのままにしておいたんじゃあ、この黒坂の面《かお》が立たねえ、悪くすると雲助《くもすけ》仲間の名折れになるのだ、なあ相棒《あいぼう》」
「うん、そうだ」
「それじゃあ、もういちばん駕籠に乗っておもれえ申して、お前様に頼まれたところからここへ来るまでの道を、もう一ぺんようく見きわめた上、宿役《しゅくやく》へお届け申すとしよう。相棒、時の災難だ、もう一肩《ひとかた》貸してくんねえ」
「合点《がってん》だ」
「ああもし、それほどのものではありませぬ、ホンの僅かばかりですから……どうも困りましたねえ」
「お前さんも困るだろうが、こっちも商売の疵《きず》になる、さあ、どうかお乗りなすっておくんなさい」
 手を取って無理にも駕籠へ押し込もうとするから、
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