「峠を三度上り下りしても大丈夫、金《かね》の草鞋というのでございます」
 老人の癖《くせ》は自慢である、水を飲ませるにも草鞋を売るにも、すべて自慢がつき纏《まと》う。
「それはそうとお武家様、今から草鞋を穿《は》き換えていずれへござらっしゃる」
 竜之助の穿き換える足許《あしもと》を見ながら、老爺が不審を打ったのは、この宿《しゅく》で泊るにしても、坂下まで行くにしても、まだ持ちそうな草鞋を捨てるのは早い。
 竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は手持無沙汰《てもちぶさた》で、
「降らねばいいに」
 軒端《のきば》から天を仰いで独言《ひとりごと》。
 なるほど、今日は朝から陰気臭い日和《ひより》であった、関の小万《こまん》の魂魄《こんぱく》が、いまだにこの土《ど》にとどまって気圧を左右するのか知らん、「与作思えば照る日も曇る」の歌が、陰《いん》に響けば雨が降る。
「今夜はこの宿でお泊りが分別《ふんべつ》でござりましょうがな」
 老爺は忠告とも独言ともつかないようなことを言って、また坐り込んで火縄にかかる。
 草鞋を穿き終った竜之助は、笠越しに空を見上げているところへ、
「さあ御新造
前へ 次へ
全87ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング