は懸念《けねん》の色が浮びます。
「忍んで行けば大事はあるまい」
「お詫びは叶《かな》いませぬか」
「所詮《しょせん》」
「あの沢井のお邸にお住まいになれば、どんなに肩身が広いでしょう」
「あさはかなことを言うな、生涯《しょうがい》あの邸には住まわれぬ」
「もう土地の人とても、大方《おおかた》は昔のことは忘れたでござんしょう」
「いやいや、あのあたりに住む甲源一刀流の人々は、いまだに拙者を根深《ねぶか》く恨んでいるに相違ない」
「もとはと申せば試合の怪我《けが》、そんなに根深く思うものはござんすまい」
 竜之助は答えず、暫らく打吟《うちぎん》じて、思い出したように、
「浜、文之丞には弟があったそうな……」
「文之丞の弟……はい、兵馬と申しまする」
「その兵馬――それは今どこにいる」
「わたしが出るまでは番町の親戚におりました」
「歳はいくつになるであろう」
「左様、数え歳の十七ぐらい」
「その兵馬は、さだめて拙者をよくは思うまい」
「まだ子供でござんすものを」
「怖《おそ》れるというではないが……いささか心がかりになる。今もその番町の親戚とやらにおるか、折もあらば聞き届けておくがよい」
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