うる盃《さかずき》を取上げて一口飲み、
「親父も尺八が好きであったがな」
「あの弾正様が?」
「そうじゃ、親父は頑固な人間に似合わず風流であった、詩も作れば歌も咏《よ》む」
 竜之助が父の噂をしんみりとやり出したのは、おそらく今日が初めてでしょう。
「この寒さは、さだめて御病気に障《さわ》りましょう」
「うむ――」
 竜之助には、このごろ初めて父のことが気にかかるようになったらしい。島田虎之助を極力ほめていた父の言葉が、昨夜という昨夜、ようやく合点《がてん》が行ってみると、父はやはり眼の高い人であった……それで自然、今までに出なかった父の噂が唇の先に上《のぼ》って来るのです。
「御無事でおられますことやら。世間さえなくば、お見舞に上ろうものを」
 お浜の附け加えたる言葉は竜之助の帰心《きしん》を嗾《そそ》るように聞えたか、
「浜――」
「はい」
「二人で一度、故郷へ帰ってみようか」
「あの、お前様が沢井まで……」
「うむ、最初には甲州筋から、そなたの故郷八幡村へ。あれより大菩薩を越えてみようか」
「それは嬉《うれ》しいことでござんすが――万一のことがありましては」
 お浜の面《かお》に
前へ 次へ
全87ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング