力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫《てぬい》にして下すったもの。
 お浜はそれを思うと自分の我儘《わがまま》であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁《し》みてくるのです。
「甲州へ帰りましょう」
 一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
 お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来《きた》って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。
 袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた一口《ひとふり》の懐剣です。
 お浜はこの懐剣を見ると、
「死!」
 この世で最も怖ろしい感情。
「生きて生恥《いきはじ》を曝《さら》すより、いっそ死のう」
 これがこの瞬間に起った考えでありました。
 お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに隠《かく》れ家《が》を見つけようと、
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