ましょうとお差図《さしず》は受けませぬ」
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒《めんどう》は頼みますぞ」
「郁太郎はわたしの子ですもの」
お浜はついと立って出て行きます。
お浜は箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白《やがすり》の袷《あわせ》を引張り出しました。
この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧《きり》の御坂《みさか》で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。
されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川《ひかわ》へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺《あざむ》いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。
ここに世帯を持ってから、屑屋《くずや》にも売られずに残っていることが思い出の種《たね》。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切《とりしき》った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに
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