と言って慄《ふる》え上った瞬間に眼前にひらめいた先《せん》の夫《おっと》文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期《さいご》を遂《と》げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨《うら》んだか。
 お浜とても、今まで寝醒《ねざ》めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面《かお》に文之丞の末期《まつご》の色がある。天井で噪《さわ》ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風《びょうぶ》の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼《あおい》い面をして睨《にら》めている。蒲団の唐草《からくさ》の模様を見ると、その蔓《つる》がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫《な》で廻そうとしている。針箱の抽斗《ひきだし》からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚《さら》って行きそうでならぬ。
 室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐《おそ》ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓
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