に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
与八は呆《あき》れてホロホロと涙をこぼし、
「四谷のどこへ引越したんべえ」
声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散《いちもくさん》に表の方へ走り出しました。
与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘《ねら》うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。
「ああ兵馬さん」
せわしい中で立ち止まった与八。
八
夜《よ》が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛《とりまぎ》れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感《かん》が嵩《こう》じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過《あやまち》がなかったと立派な口が利《き》けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによ
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