みたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
 これも中ではことり[#「ことり」に傍点]とも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
 さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転《ひっこし》をしておしまいじゃないか」
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆《むすめしゅ》は駕籠でお出かけじゃないか」
「ちっとも知らねえ、俺《おら》そんなことはちっとも知らねえ」
 与八は面《かお》の色を変えて唇を顫《ふる》わせる。
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶
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