違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺《おら》が面《かお》が立たねえ」
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
 与八は飛びついて道庵の胸倉《むなぐら》を取りますと、
「この馬鹿野郎、わしに喧嘩《けんか》をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」
 道庵先生も与八の頭へ噛《かじ》りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。
 与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振《むしゃぶ》りついてみましたけれども、もともと悪気《わるげ》があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲《なぐ》ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。
 与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

         七

 与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
 呼んで
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