さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」
「お前様が逃げ出すなら俺《おら》も逃げ出すから、一緒に逃げべえ」
「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」
これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。
与八と、みどりとは、その晩、首尾《しゅび》よく神尾の邸を脱け出して、
「与八さん、どこへ行きましょう」
「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば俺《おら》が知っている人がいくらもあるだ」
伝馬町を真直《まっすぐ》に、二人は甲州街道を落ちのびようというつもりでした。二人ともあまり地理に慣れないものですから、道を反対に取違えてしまって小石川の水戸殿の邸前《やしきまえ》へ出てしまったのです。
「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」
お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、
「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」
昌平橋と筋違御門《すじかいごもん》との間の加賀原《かがっぱら》という淋しいところへ来ると、向うから数多《あまた》の人と提灯《ちょうちん》、どうも役人らしいので与八も困って前後を見廻
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