「もし兵馬がお前様を仇《かたき》と覘《ねら》っていたら何となされます」
「仇呼ばわりをしたらば討たれてもやろう――次第によっては斬り捨ててもくれよう」
「それは不憫《ふびん》なこと、兵馬には罪がないものを」
お浜の本心をいえば、兵馬に憎らしいところは少しもない、兵馬にとっては自分は親切な姉であったし、自分にとっては兵馬は可愛ゆい弟です。その心持はどうしても取り去ることはできないのですから、まんいち兵馬が竜之助を覘《ねら》うようなことがあらば、竜之助のために返り討ちに遭《あ》うは知れたこと、そのことを想像すると、お浜は兵馬が不憫《ふびん》でたまらなくなります。
「拙者を仇と覘うものがありとすれば、それは兵馬一人じゃ。同流の門下などは拙者を憎みこそすれ、拙者に刃向うほどの大胆な奴はあるまいけれど、文之丞には肉親の弟なる兵馬というものがある以上は、子供なりとて枕を高うはされぬ」
仇を持つ身の心配を今更ここに打明けて、
「兵馬さえなくば、父に詫《わび》して故郷へ帰ることも……」
兵馬さえなくば……その言葉の下には、兵馬を探し出さば、亡《な》き者にせんとの考えがあればこそです。
お浜はここに言わん方《かた》なき不安を感じはじめました。
文之丞を亡き者にさせたのは誰の仕業《しわざ》であったろう、また兵馬をも同じ人の手で同じ運命に送らねばならぬとは――お浜は戦慄しました。その時、
「吉田氏、御在宅か」
外から呼びかけた声。
「おお、その声は芹沢氏《せりざわうじ》」
竜之助はくるりと起き上ります。客は新徴組の隊長芹沢鴨。
二
芹沢鴨と机竜之助とは一室で話を始めています。さほど広い家でもないから、次の間ではお浜が客をもてなす仕度《したく》の物音が聞える。お浜の方でも、二人の話し声がよく耳に入ります。
「時に吉田氏」
芹沢の声が一段低くなって、
「昨夜のざまは、ありゃ何事じゃ」
「なんとも面目がない」
「土方《ひじかた》めも青菜に塩の有様で立帰り、近藤に話すと、近藤め、火のように怒り、今朝|未明《みめい》に島田の道場へ押しかけたが、やがて這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ帰りおった」
「聞きしにまさる島田の手腕」
ここにもまた机竜之助の吉田竜太郎が、しおれきっているので芹沢は安からず、
「このうえ島田を斬るものは貴殿のほかにない。是が非でも島
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