うる盃《さかずき》を取上げて一口飲み、
「親父も尺八が好きであったがな」
「あの弾正様が?」
「そうじゃ、親父は頑固な人間に似合わず風流であった、詩も作れば歌も咏《よ》む」
 竜之助が父の噂をしんみりとやり出したのは、おそらく今日が初めてでしょう。
「この寒さは、さだめて御病気に障《さわ》りましょう」
「うむ――」
 竜之助には、このごろ初めて父のことが気にかかるようになったらしい。島田虎之助を極力ほめていた父の言葉が、昨夜という昨夜、ようやく合点《がてん》が行ってみると、父はやはり眼の高い人であった……それで自然、今までに出なかった父の噂が唇の先に上《のぼ》って来るのです。
「御無事でおられますことやら。世間さえなくば、お見舞に上ろうものを」
 お浜の附け加えたる言葉は竜之助の帰心《きしん》を嗾《そそ》るように聞えたか、
「浜――」
「はい」
「二人で一度、故郷へ帰ってみようか」
「あの、お前様が沢井まで……」
「うむ、最初には甲州筋から、そなたの故郷八幡村へ。あれより大菩薩を越えてみようか」
「それは嬉《うれ》しいことでござんすが――万一のことがありましては」
 お浜の面《かお》には懸念《けねん》の色が浮びます。
「忍んで行けば大事はあるまい」
「お詫びは叶《かな》いませぬか」
「所詮《しょせん》」
「あの沢井のお邸にお住まいになれば、どんなに肩身が広いでしょう」
「あさはかなことを言うな、生涯《しょうがい》あの邸には住まわれぬ」
「もう土地の人とても、大方《おおかた》は昔のことは忘れたでござんしょう」
「いやいや、あのあたりに住む甲源一刀流の人々は、いまだに拙者を根深《ねぶか》く恨んでいるに相違ない」
「もとはと申せば試合の怪我《けが》、そんなに根深く思うものはござんすまい」
 竜之助は答えず、暫らく打吟《うちぎん》じて、思い出したように、
「浜、文之丞には弟があったそうな……」
「文之丞の弟……はい、兵馬と申しまする」
「その兵馬――それは今どこにいる」
「わたしが出るまでは番町の親戚におりました」
「歳はいくつになるであろう」
「左様、数え歳の十七ぐらい」
「その兵馬は、さだめて拙者をよくは思うまい」
「まだ子供でござんすものを」
「怖《おそ》れるというではないが……いささか心がかりになる。今もその番町の親戚とやらにおるか、折もあらば聞き届けておくがよい」
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