大菩薩峠
鈴鹿山の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浜《はま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)故郷|八幡《やわた》村あたりは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+主」、第3水準1−87−40]
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         一

「浜《はま》、雪は積ったか」
 炬燵《こたつ》に仮睡《かりね》していた机竜之助は、ふと眼をあいてだるそうな声。
「はい、さっきから少しもやまず、ごらんなされ、五寸も積りました」
「うむ……だいぶ大きなのが降り出した」
「大きなのが降ると、ほどなくやむと申します」
「この分ではなかなかやみそうもない、今日一日降りつづくであろう」
「降っているうちは見事でありますが、降ったあとの道が困りますなあ」
「あとが悪い――」
 竜之助は横になったまま、郁太郎《いくたろう》に乳をのませている差向《さしむか》いの炬燵越しにお浜を見て、
「あとの悪いものは雪ばかりではない――浮世《うきよ》のことはみんなそれじゃ」
 今日は竜之助の言うことが、いつもと変ってしお[#「しお」に傍点]らしく聞えます。
「ホホ、里心《さとごころ》がつきましたか」
 お浜は軽く笑います。
「どうやら酒の酔《よい》もさめかけたような――」
 竜之助はまた暫らく眼をつぶって、言葉を休めていましたが、
「浜、甲州は山国なれば、さだめて雪も積ることであろう」
「はい、金峰山颪《きんぽうざんおろし》が吹きます時なぞは、わたしの故郷|八幡《やわた》村あたりは二尺も溜《たま》ることがありまする」
 こんなことを途切れ途切れに話し合って、雪を外に今日は珍らしくも夫婦の仲に春風が吹き渡るように見えます。
 悪縁に結ばれた夫婦の仲は濃い酒を絶えず飲みつづけているようなもので、飲んでいる間はおたがいに酔《よい》の中に解け合ってしまいますけれども、それが醒《さ》めかけた時はおたがいの胸にたまらないほどの味気《あじき》なさが湧いて来ます。その故に或る時は、二人の間に死ぬの生きるのというほど揉《も》め出すかと思えば、或る時は水も洩らさぬほどの親しみが見えるのです。
「坊は寝たか」
「はい、すやすやと寝入りました」
「酒はまだあるか」

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