ましょう。時にお師匠様」
 七兵衛は話向きを改めて、
「お松の方はどうでございましょう」
「ああ、その事、その事。それはわたしの方からお前さんに尋ねたい。飛脚《ひきゃく》を立てようかと思っていたところですよ」
「へえ、お松がどうぞ致しましたか」
「あの子はお前、駈落《かけおち》をしてしまいましたよ」
「駈落を?」
「それも御主人の若様と逃げたとか、然《しか》るべき男と逃げたというんならお話にもなりますけれど」
「いったい、誰と逃げました」
「誰といってお前、山出しの馬鹿と逃げたんだもの、話にも何もなりやしない」
「馬鹿と……」
「お前さんには最初から話さないとわからないが、二月《ふたつき》ほど前にあの子を、わたしが四谷の神尾様という旗本のお邸へ御奉公に上げましたところが、そのお邸に与太郎とか与八とかいう馬鹿がいて、どうでしょう、お松はその馬鹿に欺《だま》されて夜逃げをしてしまいました」
「四谷の神尾様というのは、あの伝馬町の神尾主膳様のことでございますか」
「そうです。その神尾様、三千石のお旗本なんだから、首尾よく御奉公して殿様のお気に入ればどんなに出世するかわからないのに、人もあろうに風呂番をしていた与太郎という馬鹿と駈落《かけおち》するなんて、わたしも呆《あき》れ返ってしまった、あんな世話甲斐《せわがい》のない子というはありやしない」
「それほど馬鹿な女とは思いませんでしたが、いったい、どっちの方へ逃げましたか、手がかりはございませんか」
「いっこう知れません、いろいろ手配《てはい》をして探してみましたけれども、どうしてもわかりません。お前さんの方へも飛脚を立ててみようとしましたけれども、殿様がおっしゃるには、そんな腐った奴を騒ぎ立てて探すには及ばないと、それなりにしてありますが、わたしの身になると、殿様には面目がないし、自分では腹が立つし……」
「そういうわけならば、ひとつ私も探してみましょう。あのお松とても生来《しょうらい》が、それほど馬鹿ではなかったはずですから、尋ね出して聞いてみたら何か事情があるかも知れません」

         十三

 七兵衛が最初この家へ入った時から見え隠れについて来て、今まで路地内《ろじうち》や表通りをうろうろしていた一人の紙屑買《かみくずか》いが、いま七兵衛が出かけると、またそのあとをついて行きます。
 七兵衛は妻恋坂から本
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