き恥辱。ことに人を殺せば血を見るはずの竜之助がこの場合に、逃げ去るとは甚だ合点《がてん》のゆかぬことです。
 しかしながら約定《やくじょう》の時刻にも赤羽橋へ来るということもなく、新銭座の家へ行って見れば、家の中はさんざんであるのに、子供が一人、声を涸《か》らして泣いているばかり。手を分けて行方《ゆくえ》をさがしたけれどもわからず、これがためにその日の果し合いは中止。宇津木兵馬は残念の余り、張り詰めた勇気も一時に砕くるの思いでしたが、ここに唯一《ゆいつ》の手がかりというのは、机竜之助が芹沢鴨に宛てた書面一通を発見したことで、その中に、
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「兵馬を斬つて後、拙者は予《かね》ての手筈《てはず》の通り京都へ立退き申すべく……」
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という文言《もんごん》です。
 この手紙を見れば、竜之助が今日の果し合いに立合う覚悟は勿論《もちろん》のこと、立合えば必ず兵馬を斬ることに自分できめ、兵馬を斬れば京都へ飛ぶその手筈まで整うていたものと見えます。それほどの覚悟が出来ながら逃げるとは何事であろう。これは誰にもちょっとわかり兼ねたところであるが、お浜を殺したのも竜之助であろうとは――誰人にもそのように想像されるのでありました。

         十二

「どうも永らく御無沙汰を致しました」
 妻恋坂のお絹の宅へやって来たのは珍らしくも裏宿七兵衛。
「これは珍らしい七兵衛さん、どうしたかと心配していました」
「つい百姓の方が忙がしいもんでございますから。それに、骨休めを兼ねてお伊勢参りをして来たものでございますから。これはわざ[#「わざ」に傍点]っとお土産《みやげ》の印《しるし》」
「それはお気の毒な。お前さん方は、ほんとに羨《うらや》ましい身分ですね、稼《かせ》いでおいてはお伊勢参りだの、江戸見物だのと気晴らしができますから」
「へえ、どう致しまして」
「並《なみ》のお百姓では、そんなにチョイチョイ出て歩けるものではありません」
 お絹にこう言われて七兵衛は苦笑《にがわら》い。
「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か反物《たんもの》でも商《あきな》いをなさるの」
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹《かいき》の上等を少し見せてもらえまいかね」
「よろしゅうございます、持って参り
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