だって、これから身を定めるには物要《ものい》りがつづきますからね、何とかしなければ」
「左様《さよう》でございますね」
「あのね、あんまり立入ったことだけれども、お前なにか金目《かねめ》の物を持っていやしないかね、売るとか質に入れるとかして、纏《まと》まったお金の手に入るようなものを」
「それは、どうも」
「あれは何だね、お前あの手文庫の中にあったもの、錦の袋に包んだ短刀のようなもの、あれはお金になりそうだね」
 お滝が早くも眼をつけたのは、ずっと昔、お松が裏宿《うらじゅく》の七兵衛から貰った藤四郎の短刀です。
 お松は返事に困って、この伯母という人の性根《しょうね》がどこまで卑《いや》しくなったかと、それを悲しむのみであります。
 お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して鞘《さや》を払ってながめました。
 暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に耽《ふけ》っていると、
「これお前様《めいさま》、心得違えをしてはなんねえ!」
 後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。
「飛んでもねえこんだ、刃物《はもの》なんぞを持って」
「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」
 お松は、与八の驚き方があまりに大仰《おおぎょう》なのでおかしくなったのですが、与八はまた、お松が永《なが》の病気から身の上を悲観して自害でもするつもりと勘違いをしているので、お松の手から短刀をもぎ取って、
「危ねえ、こりゃ俺《おら》が預かる」
 与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、
「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」
 お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、
「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」
「お前様これをお売りなさるのか」
「売ってしまいましょう」
「それでも大切の品だんべえ」
「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの入用《
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