た男が、ひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]の面をかぶって来たから兵馬も笑い出して、それを避ける途端《とたん》に道庵はころころと往来へ転がってしまいました。
「やあ、先生が倒れやがった、起せ起せ」
 子供らは寄ってたかって道庵を起し、
「お家へ担《かつ》いで行こう、わっしょ、わっしょ」
 この騒ぎで宇津木兵馬は机竜之助の姿を見失って、その日はそれで帰りました。

         五

 お松の病気も大分よくなりました。よくなったとは言うものの、半月あまりも寝たことですから、その間の与八の骨折りというものは大したものでありました。
 伯母のお滝は例の如く空《から》お世辞《せじ》を言っては金を借りて行き、その金を亭主の小遣銭《こづかいせん》にやったり自分らの口へ奢《おご》ったりしてしまったので、お松の病気の癒《なお》った時分には、持っていた金はほとんど借りられてしまったのです。
 お松は蒲団《ふとん》の上へ起き上って乱れ髪を掻《か》きあげていますと、お滝がまたやって来て、
「お前、ようやく癒ってよかったねえ」
「はい、おかげさまで」
「これというのも、わたしが湯島の天神様へ願《がん》がけをして上げたのと、それから道庵先生のおかげだよ」
「はい」
「それから今日はお前、天神様の御縁日《ごえんにち》だからお礼詣《れいまい》りに上らなくては済みませんよ」
「はい」
「近い所だけれども、まだ無理をするといけないから駕籠《かご》をそいって上げるよ」
「いいえ駕籠には及びません、歩いて参りませぬと信心になりますまいから」
「そんなことがあるものかね、歩いて行こうと駕籠で行こうと信心ごころさえ確《たし》かならねえ……それはそうとお前」
 お滝の言葉が改まる時は、そのあとに来るのはいつも金のことですからお松はヒヤリとすると、案《あん》の定《じょう》、
「道庵先生への薬礼《やくれい》はどうなさるつもりだえ」
「伯母さま、実を申し上げれば、今のところ……」
「もうお金は無いのかい」
「ええ……」
 面《かお》を赧《あか》らめていると伯母は、
「わたしの方でも、お前にだいぶ借金がありますが、今々というわけにもいかず、困ったねえ」
 困った面をして、
「道庵先生はああいう変人だから、少しぐらい延びたって何とも思いなさりゃしますまいが、それならそのように、なおさら早くお礼をしないと。それにお前
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