、ついぞ一日お仲間入りをしたこともないし、それというも、みんなお前さんへの心中立《しんじゅうだ》てではありませぬか、そんなことを言われるとホントにいやになってしまうわ」
「いやになったら花見にでも芝居にでも行け!」
男の言葉が荒くなったので、女も気色《けしき》ばんで、
「あれ、お前さんお怒《おこ》りなすったの」
男は机竜之助で、女はお浜で、子供というのは二人の中に去年生れた郁太郎《いくたろう》で、この三人が住んでいるのは、芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内のささやかな長屋です。
あれから四年後、二人の生活はこんなふうに変化して、いわゆる日蔭者のその日の暮しは、江川邸内の足軽らに竜之助が剣術の一手を教えるのと、邸内を守ることによって支えられているわけです。
「ほんとにつまらない」
お浜は郁太郎を抱きながら投げ出したような溜息《ためいき》です。
「何がつまらない」
「なんですか、しみじみ世の中が詰《つま》らなくなりましたわ」
「尼にでもなれ」
「ほんとに儘《まま》になるならば比丘尼《びくに》か巡礼にでもなりたい……」
竜之助は苦《にが》り切って、その面《かお》には負けず根性の中に抑《おさ》え難い鬱屈《うっくつ》が漲《みなぎ》っている、それを無理に抑えつけて、半ば不貞返《ふてかえ》った気味のお浜の言い分を黙って聞き流しているが、折にふれて夫婦の間には、こんな不愉快な空気がこの二三年来|漂《ただよ》うて、今日はその雲行きがいつもよりは険《けわ》しいのです。
「ねえ坊や、お前さえなければお母さんはどこへでも行けるのだよ、坊やのお父様という人はねえ、お母さんに尼になれだとさ、お父さまに愛想《あいそ》を尽かされても、坊やがあるためにお母さんは何とも口答えができないし、出て行くところもないのだよ」
お浜は郁太郎の面をじっと見つめながら、
「今日は五月の五日といって、男の子のお祝いの日なのよ、坊やも初子《ういご》だからお父さんに祝っておもらい、幟《のぼり》を立てておもらい。お母さんは器量がないから人形一つ買って上げることはできないのだよ」
竜之助は横を向いて取合わないでいるのを、お浜は畳みかけて、
「お節句のお祝いができないから、仏様に線香でも上げましょうねえ坊や、四年前の今日死んだ文之丞という人にお線香を上げてやりましょう、坊やは悪い月星《つきほし》の下に生れたねえ」
こう言いながら、前に住んでいた人がこしらえておいた仏壇の方へ立って行こうとするのを、竜之助はこらえ兼ねた気色《けしき》で、
「これ浜、少し待て」
「お線香を上げては悪いのですか」
「そこへ坐れ」
「はい」
「お前は了見《りょうけん》の悪い女じゃ」
「はい、もとより悪い女でござんす、悪い女なればこそこうしてみじめな……」
「身を誤ったはお前ばかりではない、この机竜之助もお前のために身を誤った、所詮《しょせん》、悪縁と諦《あきら》めがつかぬものか」
「悪縁……もう疾《と》うの昔に悪縁とは諦めておりますが」
「さあ、悪縁と思えば辛抱の仕様もある、わしもお前からさんざんの嫌味《いやみ》を並べられ、人でないようにこき下ろされても、悪縁と思えばこそ何も言わぬ」
「悪縁なら悪縁のように少しは浮いた花やかな暮しもあろうものを、お前様と添うて四年越し、ついぞホッとした息をついたことがない」
お浜はつんと横を向いて、
「ああ、文之丞殿と添うていたら」
この一語は竜之助の堪忍《かんにん》の緒《お》をふっと切ったようです。
「浜、そういうことが今更わしの前で言えるか」
竜之助の唇がピリリと顫《ふる》えます。
「はい、どこでも申します、今となってわたしは文之丞が恋しい」
「ナニ!」
「あのまま添うていたら、この子にもこんな苦労をさせずに済もうものを」
お浜はハラハラと涙をこぼします。
「うむ――」
竜之助は憤《いきどお》りを腸《はらわた》まで送り返すために拳《こぶし》にまで力が入って、
「よう、あの頃のことを考えてみい、罪はわしにあるか、ただしお前にあるか」
「さあ、水車小屋で手込《てごめ》にした悪者は誰でしょう」
お浜は後《おく》れ毛《げ》をキリリと噛《か》み切って、
「あれが悪縁のはじまり、あのことさえなくばわたしは宇津木文之丞が妻で、この子にもこんな苦労はさせず」
「ああ、女は魔物じゃ」
ここに至って竜之助は女の怖るべきことを初めて悟ったかの如く、深い歎息のほかには言句《ごんく》も継《つ》げなかった有様でしたが、ややあって独言《ひとりごと》のように、
「おれが方から言えば、あの試合に殺気を立てたのはみんな浜という女のなす業《わざ》じゃ、文之丞が突いた捨身《すてみ》の太刀先《たちさき》には、たしかに恋の遺恨《いこん》が見えていた、それを打ち返したこっちの刀にも悪女の一念が乗り移っていたに違いない、事の行きがかりはみな浜という女の一念から起る」
「ようもまあ、そんなことが」
お浜は飛びつくように詰め寄せて、
「お前様というものがなければ文之丞は無事、わたしも無事、宇津木の家にも机の家にも、何の騒ぎも起るまいに、それをみんなわたしのなす業とは、どうしてまあ、そんなことがお前様の口から……」
「いいや、お前という魔物のなす業に違いない」
「まあまあ、わたしが魔物!」
「宇津木文之丞を殺したも、机竜之助が男を廃《すた》らせたも、あれもこれもみな浜、お前の仕業《しわざ》に違いない」
「まあ、あれもこれもみなわたし?」
「それに違いない、お前の怖ろしさがいま知れた」
竜之助は騎虎の勢いで、言うだけ言ってのけるほかはなかったので、お浜は狂乱の体《てい》にまでのぼせ上り、
「おお、よくおっしゃった、わたしが悪魔なら、どこまでも悪魔になります」
郁太郎《いくたろう》を投げ出して竜之助の脇差を取るより、
「坊や、お前も死んでおくれ、わたしも」
竜之助はその手を厳《きび》しく抑えた。郁太郎は火のつくように泣き叫びます。
「死ぬとも生きるとも勝手にせよ」
竜之助は脇差を奪い、刀を取って腰に差し、編笠《あみがさ》を拾ってかぶるなり縁側からふいと表へ出てしまいました。
二十三
どこをどうして来たか机竜之助は、その日、夕陽《ゆうひ》の斜めなる頃、上野の山下から御徒町《おかちまち》の方を歩いていました。
ふと、鼓膜に触れた物の音で、呆然《ぼうぜん》と歩いていた竜之助はハタと歩みを留めたのでありました。
見上ぐればそこには卑《いや》しからぬ構えの道場がある。その中からは戞々《かつかつ》と響き渡る竹刀《しない》の音、それと大地を突き透《とお》す気合の叫びが、おりおり洩れて来るのです。
ああ竹刀の音、気合の声、それを忘れてよいものか。竜之助は釘付《くぎづ》けられたように立ちつくして、そうして道場の武者窓のあたりへと近寄りました。
その道場の表札も古く黒ずんで、道場の主が果して何者であるやもよくわからなかったけれども、好きな道で我を忘れて武者窓から編笠越しにのぞき込むと、主座に坐っているのは五十ぐらいの年配で、色の少し黒い、頬骨《ほおぼね》がやや高くて、口は結んで、脊梁骨《せきりょうこつ》がしゃんと聳《そび》え、腰はどっしりと落着いて、じっと眼をつぶって、さながら定《じょう》に入《い》ったように見える人物。左右に並んだ弟子たちが十余人、いま場《じょう》の真中で行われつつある稽古ぶりを見ている熱心さ。
竜之助はこの緊張した道場内の空気、先生の態度、弟子の作法を見て、おのずから他の町道場と選を異《こと》にするものあるを知って、はてこの道場の主は何者であろう、どれほどの手腕がある人であろうと再び主座の方を見ると、その人物がちらりと自分の方、武者窓のあたりに眼をつけたと見えた時、竜之助はなんとなくまぶしい感じがしました。
いま道場の真中で行われつつある稽古か試合か、一方はすぐれて大兵《だいひょう》な男、一方はまだ十五六の少年。大兵の男の朱胴《しゅどう》はまだ新しく燃え立つばかりに見えるのが、竹刀は中段にとって、気合は柄《がら》に相応してなかなか凄《すさ》まじいものです。相対した少年は質素な竹の胴に、これも同じく中段に構えているが、釣合いが妙ですから上段と下段くらいのうつりに見えます。
主人の位を見た竜之助は、この立合もまた興味を以て見はじめました。
「エーイ!」
大の男が鋭い気合と共に、
「足!」
足を覘《ねら》うは柳剛流《りゅうごうりゅう》に限る。少年は真影流《しんかげりゅう》に見る人の形。
「他流試合か」
竜之助がこう呟《つぶや》いた時、少年はちょっと板の間を蹴《け》るようにして左の足をはずして、飛び込んで、
「胴!」
主座の人はなんとも合図なし。両人は分れて、またも同じく中段の構えです。
竜之助はかの大兵《だいひょう》の男よりは、この少年に眼をつけざるを得なかった、というのは、あとの「すくい胴」はとにかく、前の足をはずす巧妙さ、自分にも覚えがあるが、柳剛流の足は難物《なんぶつ》で、これをはずすは一流の達人でも難《かた》しとするところ、それをこの少年は平然としてその足をはずして直ちに腹へ行く余裕がある。
「これは出来る」
竜之助はひとり感歎しつつ一倍の興味に誘われていると――
大兵の男は上段に取って、ウナリを生ずるほどの竹刀に押しかぶせて少年の面上へ打ち下ろす、それを左へ払って面へ打ち返したがそれは不幸にして届かなかった。盛り返した大兵は呼吸をはかって突きを入れる、一歩進んでそれをはずした少年は、またしてもかいくぐって胴、これは届いたけれども浅かった。
とにもかくにも二本まで腹へ触《さわ》られて大兵の男は苛《いらだ》って、面《めん》、籠手《こて》、腹のきらいなく盛んな気合で畳みかけ畳みかけ、透間《すきま》もなく攻め立てる。竜之助は大兵の男の荒っぽい剣術ぶりを笑止《しょうし》がって見ているうちに、少年は右へ左へ前へ後ろへ、ほどよく綾《あや》なす手練《しゅれん》と身の軽さ。そのうちになんと隙《すき》を見出したか、
「突き!」
細い、爽《さわ》やかな少年の声は道場の板の間を矢の如く走ると見れば憐《あわ》れむべし、大兵の男は板の間も砕くる響きを立ててそこに尻餅《しりもち》をついて、鳥羽絵《とばえ》にあるような恰好《かっこう》をして見せたので、並み居る連中は吹き出しそうなのを、主座の方に気兼ねをしてやっとの我慢です。
机竜之助は久しぶりで心地《ここち》よい見物をしたと、その瞬間には今朝よりの不愉快なこともすっかり忘れ去って、少年の手並《てなみ》の鮮《あざや》かなのに感心をすると共に、自分はいかに、我が手腕《うで》の程はいかにという自負心が勃然《ぼつねん》として頭を上げ来《きた》ったのです。
思えば四年以前、御岳山上で試合をしたことの以来、試合らしい試合をしたことがない、日蔭者の身で平侍《ひらざむらい》や足軽《あしがる》どもを相手に腕を腐らせていたのみで、退くとも進むはずはあるまいが、さりとて世間並みの剣客や師範に劣ろうとは思わない、ここの先生はどれほどの人か知らん、とにかく今の少年と一手を争い、次にこの先生のお手の中《うち》を拝見するも一興であろうと、竜之助は矢《や》も楯《たて》もたまらなくなりました。
二十四
改めて玄関から案内を乞うて道場内へと入りました。
主座の先生はちらと、入り来る竜之助の姿を見たばかり。竜之助は門人に導かれてその人の前に跪《ひざまず》き、
「拙者事《せっしゃこと》は江川太郎左衛門の配下にて吉田竜太郎と申す未熟者《みじゅくもの》」
竜之助は我が名を表向き名乗る場合には、それ以来、吉田竜太郎の名を以てします。
「拙者は島田虎之助でござる」
この一語、さすがの机竜之助をして胴震《どうぶる》いをさせるほどに驚かせました。
名にし負《お》う島田虎之助とはこの人のことであったか、父の弾正が剣術の話といえば必ずこの人の名を呼ぶ、父の弾正は当時この人でなければ剣術はないように言う。
竜之助はそ
前へ
次へ
全15ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング