の話を聞かされるごとに、一たびは冷笑し、一たびは小癪《こしゃく》にさわり、折あらばその虎之助なる者と立合ってみたい、老いぼれた父の鑑識《めがね》を我が新鋭の手練を以て打ち砕いてやるも面白かろうと、平生《へいぜい》はこんなに思っていたが、今日《こんにち》までその人に会う機会もなかったのを、今日、計《はか》らずその道場に飛び込んで他流試合を申し入れるとは奇妙な因縁《いんねん》でもあり、この上もなき好機会でもある。一度は胴震いするほどに驚かされたが、好き敵|御参《ごさん》という自負心は高鳴りをして、久しく鬱屈していた勇気が十倍の勢いで反抗してきました。
さりながら、法に従ってまず門人衆と立合わねばならぬ。
「当道場門人の末席を汚《けが》す片柳兵馬《かたやなぎひょうま》と申す未熟者」
三人は手もなく打ち込んで四人目がかの少年。今は仮に外戚《がいせき》の姓を名乗る宇津木兵馬でありました。あれから四年目、兵馬は十六歳。再び道具を着ける。竜之助のは道場から借受けた道具。
門人どもはこの新来の他流の客の流風に、心中|畏《おそ》るるところあって見ているうちに、場の真中に立ち出でた両人は、互いにしばし席を譲って、やがて相引き、机竜之助は西に向って構えたのが例の「音無し」です。
島田虎之助はこの時、両人の構えをちらと見て、机竜之助の音無しの構えの位に少しく奇異の感を起したと見えて、再び篤《とく》とその方を見ています。
宇津木兵馬は中段に取って気合を籠《こ》めているうちに、不思議なのは先方の呼吸で、サッパリ張合いがありません。
引いて構えたまま、気合もかけねば打っても突いても来ない、さりとて焦《せ》き立つ気色《けしき》も見えないで、立合としてこんなのは初めて。先の心を測《はか》り兼ねますから、やむなく自分も仕掛けて行きません。二人は道場の中に、竹刀と竹刀、眼と眼を合せたきりで静かなものです。
もし島田虎之助という人が彼方此方《あなたこなた》の試合の場を踏む人であったなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或いはその評判を聞いたりして、疾《と》くにさる者ありと感づいたであろうが、そういう人でなかったからこの場合、ただ奇妙な剣術ぶりじゃとながめているばかりです。
兵馬は無論、これが敵と覘《ねら》う机竜之助であろうとは夢にも知るはずがない、ただ扱いにくい竹刀かなと内心にいささか焦《じ》れ気味です。そこで兵馬は思い切って一声、竹刀を返して竜之助が面をめがけて打ち込まんとする時、
「籠手《こて》!」
竹刀の動く瞬間に、竜之助の竹刀は兵馬の籠手を打ったのです。
「籠手、よろし」
島田虎之助は頷《うなず》きました。
宇津木兵馬はつと[#「つと」に傍点]飛び退《しさ》って、また中段に構え直しました。
竹刀の先わずかに動いたのみで兵馬の籠手を取った竜之助は、更に飛び込んで来るかと思うとそうではなく、前の通りの音無しの構えでじっと動かず。
兵馬は小手調べを見事に失敗《しくじ》って、こっちから仕かけた軍《いくさ》に負けて一時ハッとしたが、この一手でおおよそ敵の手段のあるところがわかったらしく、退《さ》って中段に構えたなり動かず。
かの御岳山上で、兵馬の兄とこの人とが決死の立合をした時の瞬間がやはりこれです。兵馬はこんなジリジリした太刀先に立つのがいやになった、得意中の得意の一手、
「突き!」
兵馬の得意は諸手突《もろてづ》きです。今も最後に他流の大兵を突き倒したあの一手。
と見れば竜之助の竹刀、突いた兵馬の竹刀を左に払って面! 兵馬の竹刀それよりも速きか遅きか突き! これは前のよりも一層深かった。尋常ならば相打ち。問題はいずれの刀がどれほど深いか浅いかであって、島田虎之助はそれを何とも言いません。
それからはいつまで経《た》っても静かな音無し。ついに二人の立合は分けで終りました。
「島田先生に一太刀の御教導を願わしゅう存じまする」
竜之助は面、籠手をはずした後、虎之助の前に膝行《にじ》り出でて言葉を卑《ひく》うして申し入れると、島田虎之助は、
「いや吉田氏とやら、貴殿は妙な剣術をつかいなさる、どこで修行なされた」
「親共につきまして小野派の一刀流を少しく学びました、それよりは別に師と頼みたる者もなく……」
「ははあ」
島田虎之助は眼をつぶって夢を見ている体《てい》たらく。
「御高名の一手を御教授下し置かれたく……」
「…………」
島田先生、いっこう竜之助の懇願《こんがん》に取合いがなく、閉眼沈思の姿でありますから、
「未熟者ながら先生の一太刀を……」
繰返して願ってみても、何とも返事がなく、これもさっぱり張合いがありません。
二十五
宇津木兵馬が入門の初め、島田先生はこういうことを教えました。
剣術は自得である。筑後|梁川《やながわ》の藩に大石進という者がある。性質愚に近いほどの鈍根《どんこん》で、試合に出ては必ず負ける。後輩年下の者にさえさんざんに打ち込まれる。そのたびごとに笑われ嘲《あざけ》られる。或る時、非常なる辱《はずかし》めに会ってから、さすがの鈍物《どんぶつ》も藩の道場に姿を見せなくなった。それより門を杜《と》じて、天井より糸で毬《まり》をつるし、それを突くこと三年間、ついに天下無敵の突きの一手を発明してしまった。再び道場に現われた時は藩中はおろか、天下その突きの前に立ち得るものがない。(島田虎之助に、男谷下総守《おたにしもうさのかみ》、それにこの大石進を加えて当時天下の三剣客という。)
島田先生からこの話を聞いた兵馬は、同じ方法と同じ熱心を以て突きの手を工夫し、今や同じような成功を見るに至ったわけです。
兵馬がそれとは知らずに机竜之助と竹刀を合せてから、ほぼ一カ月余りのことで、夏の日盛りを御徒町の道場から牛込のある友人のもとへ試合に行こうと、空模様が険呑《けんのん》であったのに、道具を肩にして出かけると、はたして御成《おなり》街道から五軒町の裏を妻恋坂《つまこいざか》にのぼりかけた時分に、夕立の空からポツリポツリ。
どこか雨宿りをと坂を上りつめた時分には、一天|墨《すみ》の如く、ガラス玉のようなのが矢を射るように落ちて来ます。
「ここで暫《しば》しの雨やどり」
兵馬は、とある家の門側《かどわき》に彳《たたず》み、空をながめて、雲の走り去り雨の降りおわるのを待っていると、やがて盆を覆《くつがえ》す勢いで風雨が殺到して来ました。
「婆や、早く二階を締めて下さい」
この家《や》の中で若い女の声。
「お松様、引窓の紐が切れてしまいました」
これは婆さんの声。
「それは困ったね、ではわたしが二階を締めるから」
こういって若い女は、あわてて二階へ走《は》せ上って、かいがいしく雨戸を繰りはじめましたが、兵馬はなにげなく二階を見上げますと、いま戸を立てた女は、最後の一枚を残してそこから驟雨《しゅうう》の空と往来とを見ていましたのと、ちょうど両方の間が斜めに向って、見上げても見下ろしても、ぜひ眼のぶっつかる地位でありました。
兵馬は少女を見上げて、何となくはっと心を打たれました。女も兵馬の姿から、しばらく眼を放しませんでしたが、そのうちに戸はピタリと立て切って、兵馬はそれなりまた雨の降る勢いを見て立ちつくしています。
わずかの小門の廂《ひさし》だけに身を寄せたのですから、好いあんばいに風は少し向うへ吹いて行く分のこと、袴《はかま》の裾や衣服の袂《たもと》には沫《しぶき》がしとしととかかります。と、くぐり戸ががらりとあいて、半身と傘の首だけを兵馬の前に突き出したのは以前の婆さんで、
「もし、あなた様、中へ入ってお休みなさいませ」
「はい、有難う存じまする」
「おっつけ晴れましょうから、どうぞ御遠慮なくお入りなさいませ」
「はい……」
兵馬は遠慮して、まだ入り兼ねていると、
「さあ濡《ぬ》れます濡れます、あなた様も濡れます、この婆《ばば》も濡れますほどに」
こういわれて兵馬は、好意を有難く思ってこの家の中へ入りました。
「さあどうぞ、お上りあそばして」
兵馬が中へ一足入れると、障子のところに立っていたのはいま二階からちらと見合った少女、見れば髪も容《かたち》も眼の醒《さ》めるような御守殿風《ごしゅでんふう》に作っておりました。
雨はなかなか歇《や》みそうもなく、風も少しずつ加わってくるようです。再三辞するもきかず一室に招《しょう》ぜられた兵馬は、そこに坐って手持無沙汰《てもちぶさた》に待っていながら、つらつらこの家の有様を見ると、別に男の気配《けはい》も見えないし、茶道具とか花とか風流がかったもののみ並べてありますが、しばらくすると絹ずれの音がさやさやと、
「お客様、御退屈でござりましょう」
さきの女は、しとやかに入って来たので、
「いや別に――」
兵馬は取って附けたような返事。
「もう歇みそうなもの」
「ごゆっくりあそばしませ」
戸外では松の枝が折れたらしい。風雨の容易に止みそうもないのをもどかしがっている兵馬には、この女と差向《さしむか》いのように坐っていることが気が咎《とが》めるようでなりません。
ここはいかなる人の住居《すまい》で、この少女は娘であろうか、それにしてもこの花やかな御守殿風は……とようやく不審にも思われてきましたが、深く推量すべき必要はないことで、雨が霽《は》れてしまうと兵馬は厚く礼を述べて、この家を立ち出でました。
二十六
雨が上って兵馬を帰してから暫《しば》らくたって、
「お松や、さっきの若いお方はお前の知合いなのかい」
「いいえ、雨に降り込められて門前で困っておいでのようでしたから……」
「可愛ゆい若衆《わかしゅ》でしたね」
お松はこう言われて、何のわけもなく真赤になりました。
お松は大菩薩峠で七兵衛に助けられたお松。それを前に呼び寄せて話しているのは、七兵衛の手からお松を預かった切髪《きりがみ》の年増《としま》でありました。
「それはそうと、明日はお邸へ上らなくてはなりませぬ」
「はい」
「お邸へ上りましたなら、かねて申してある通り、わたしに代って辛抱《しんぼう》して、殿様のお気に入るようにして下さい」
「わたしのような慣れないものが、お気に入るようになられましょうやら、それが心配でございます」
「殿様はお酒をおあがりなさるとお気が荒いけれど、平生《へいぜい》は親切なお方だから、御機嫌《ごきげん》の取りにくいことはありませぬ」
「お手荒《てあら》なことをなさることはございますまいか」
「まあそんなことがあっても、和《やわ》らかにとりなすのが御奉公と申すもの」
「それでも、かよわいわたくし風情《ふぜい》の力で殿様の御機嫌が直りませぬ時は……」
お松が心配そうに言うのを切髪の婦人は笑って打消し、
「なにも殿様が、きっと手荒いことをなさるときまったわけではなし、また朋輩《ほうばい》もたくさんあることだから……朋輩といえばお松や、殿様や家来方の御機嫌よりも朋輩同士の仲が小面倒《こめんどう》なのよ、よく気をつけないと嫉《ねた》まれたり憎《にく》まれたり――」
「わたしはそれも心配でございます」
「お殿様にもお気に入り、朋輩衆にも嫉まれず、それが女の腕というもの。まあ初陣《ういじん》と思うて乗り込んでごらん」
「お師匠様の御恩報じのつもりで、きっと勤めまする覚悟」
お松の頼もしい言葉は、お師匠様と呼ばれた切髪の婦人の心を非常に満足せしめたようでありましたが、やや小声になって、
「それにねお松や、お前が女中衆のうちでいちばん年も若いしするから、何でもまず殿様を丸めてしまわなくては……ホホホ、丸めるというと恐れ多いけれど、やっぱり何とかして殿様をこっちのものにするのさ、ね、おわかりかえ」
「まあ、わたしにそんなことが――」
耳まで真赤にしてお松が俯向《うつむ》くのを、
「ホントにお前はまだ子供で困ります」
お松がここで行けと言われている家は、四谷の伝馬町《てんまちょう》の神尾という三千石の旗本《はたもと》であります。こ
前へ
次へ
全15ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング