の切髪の婦人というのは先殿様《せんとのさま》の妾《めかけ》であったので、殿様が亡《な》くなって殊勝《しゅしょう》らしく髪を切って、仮りに花の師匠となり、弟子というものもさっぱりないけれども、先代からの扶持《ふち》やその他で裕福《ゆうふく》に暮らし、院号やなにかで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合います。
 神尾の邸の中では、旗本の放蕩息子《ほうとうむすこ》らが日夜|入《い》りびたりで賭博《とばく》に耽《ふけ》ると言い、十人も綺麗《きれい》な女中がいて、それやこれやの聞きにくい噂《うわさ》があります。お松はこれから、恩義の枷《かせ》でその中へ送られて行かねばならぬ。言いようのない辛《つら》さ。こんな時に兄弟でもあったらと思うにつけて、雨宿りした兵馬の面影《おもかげ》、かりそめの縁ながら、目先にちらついて忘るることができません。
 兵馬もまたこの家を出でてから、なんとなくかの少女が可憐《かれん》に思われて、その後もしばしばこの家の前を通りかかったことはありましたけれど、その折の少女の姿は再びそこに現われることがありませんでした。

         二十七

 それから一カ月ばかり後のことで、もう秋の夜長のさびしさがうっすら身に沁《し》みる頃、伝馬町の神尾の邸の湯殿に火を焚《た》いている大男があります。それは水車番の与八でした。例の独言《ひとりごと》を聞いていると、与八がどうしてこの邸へ来たかがわかります。
「大先生《おおせんせい》がおなくなりなすって俺《おら》はつまらなくなったから、お江戸へでも出てみたらと当家様へ御奉公に上ったわけだが、やっぱり水車小屋にいた方が俺が性《しょう》に合ってる、あれほど親類の衆も言って下すっただから水車番をしていればよかったに、俺モウいちど水車小屋へ帰《けえ》るべえか……」
 与八は今の境遇よりも水車小屋の昔が懐《なつ》かしいと見えて、
「あのガタンピシンという杵《きね》の音や、ユックリユックリ廻る万力《まんりき》や、前の川をどんどと威勢よく流れる水の音なんぞが、なんぼう好い心持だか。お地蔵様も小屋の中へ押立て申して、あとの人によく信心のう[#「信心のう」に傍点]するように頼んでおいたが、御岳様や貧乏山《びんぼうやま》なんぞも紅くなりはじめたことだんべえ。俺が水車にいると、よく前の川へ鹿の野郎が水飲みに来たっけ。モ一ぺん水車小屋へ帰るべえか。帰ったところで大先生がいねえことにゃつまらねえな」
 与八の独言はここで一段落になって、あとがしばらくひっそり[#「ひっそり」に傍点]と――ぷしぷしと火の燃える音のみが聞えます。
 おりから、本邸の方でどっと人の笑う声、それも一人二人ではなく、男の声に金《かね》を切るような女の声が交《まじ》って騒がしい。
「ああまた始まった、ここのお邸はまるで化物屋敷《ばけものやしき》だ」
 与八は苦《にが》り切っていると、引続いてキャッキャッとひっくり返るような女の笑い声。
「侍たちも侍たちだが女中たちも女中たちだ、女の子にお邸奉公なんぞさせるもんでねえ、ああしてみんな自堕落《じだらく》になっちまう……ついこの間も、若いお女中が入って来なすったが、いじらしいことだ、あんなしおらしい女の子もやがて滅茶滅茶に摺《す》れからしちまうだんべえ」
 この時またもひとしきり男女の噪《さわ》ぎ返る声、ドーッと笑い崩れてまたひっそりとしてしまいました。
「どれ、水でもちっと汲んどくべえ」
 与八は手桶《ておけ》をさげて井戸端へ出かけます。
 主人の神尾主膳《かみおしゅぜん》というのは三十越したばかりで、父が死んでの後はいい気になって、旗本の次男三男という始末の悪いやくざ者を集めて来ては、己《おの》が家を倶楽部《くらぶ》にしてさんざんの振舞《ふるまい》ですが、今宵《こよい》も八人の道楽仲間を呼び集めて、これに七人の女中が総出《そうで》で広間を昼のように明るくし、
「これより竹の子勝負」
と聞いて女中たちは面《かお》見合せ、
「まあいやな」
 眉をしかめていぶかしげな笑い方をする。
「さあ円くなれ、おのおの方、組を合せ給え、読みは拙者がする」
 侍どもと女中たちは夜会の席のような具合に一人ずつ席割《せきわり》をして円く組み合いましたが、女中どもはこんなことに慣れきっていると見えて恥かしがりもせず。
「ああつまらん、身共《みども》ばかりは独り者」
 投げ出すように言い出したのは、芳村《よしむら》という若い侍。
「おおこれは、芳村氏が男やもめ、笑止《しょうし》」
 すべての人が奇数であったために男やもめがひとり出来てしまったのを、主人は膝《ひざ》を打って、
「みどり[#「みどり」に傍点]が見えぬ、みどりを呼べ」
 みどりとは、三日前にこの屋敷へ見習奉公に来たお松のことです。
「みどりさん、みどりさん」
 高萩と花野と、もひとり月江という女中が都合《つごう》三人で、お松のみどりの部屋へ駈け込んで来て、
「殿様のお召しでござりまする、直ぐにいらっしゃい」
「はい……」
「ただいま百人一首が始まったところ」
「あの、せっかくではございますが気分がすぐれませぬ故」
「気分がお悪いとや。些細《ささい》な不快はあの面白い遊びで癒《なお》ってしまいまする、さあさあ早く」
「それでも、わたくしには歌が取れませぬ」
「なんのまあ、お前様ほどの物識《ものし》りが」
「いいえ、まだ百人一首の取り方も存じませぬ、左様《さよう》なお席へ出ましては、かえって失礼に存じまする故」
 女中たちは左右から、みどりの手を取り抱き上げんばかりにして、
「殿様のお言いつけでござりまするぞ、そのような我儘《わがまま》は通りませぬ」
 一人が言えば、
「ほんに、みどりさん、お前はいつもいつもこのような折は、不快じゃの不調法《ぶちょうほう》じゃの言いくるめて引込んでばかり。今日は許しませぬ」
 花野は躍起《やっき》になって、みどりの手を引張りながら、
「あれ、あのように殿様のお声が聞えまする、早うせぬとあとでどのようなお叱《しか》りに会うことやら」
 みどりはどうにも已《や》むを得ません、三人に引きずられるようにして広間へ来て見ると、形《かた》のような有様で。
「やあ、みどり見えたか、芳村殿の右へ坐れ、そちも勝負に加わるのじゃ」
 主人はこう命令すると、女中どもはみどりを芳村の隣席へ押据える。
「みどり殿、遠慮してはいけない、さあ、この札をよく見て、それから自分の前へ斯様《かよう》なあんばいに並べてお置きなされ、よいか、あれにて神尾殿が読み上げたなら、遠慮なく拾い取り候《そうら》え」
 芳村はそう言いながら札を取って、みどりの前に並べてくれます。
「わたくし、まだ札の取り方も一向《いっこう》に存じませぬ」
「いいや、むつかしいことはない、自分の前だけ守っておれば仔細《しさい》はない、その代り、自分の前を人に拾われたら一大事じゃ」
 みどりは百人一首の歌だけは覚えておりますけれど、こんなふうに札の取り合いをしたことがないので、ただもじもじしていると、
「よろしいか、はじめるぞよ」
 主膳は咳払《せきばら》いして席を見廻し、
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あらざらむ……
[#ここで字下げ終わり]
「しめた!」
 芳村は手を伸べて、太田という隣席の札を一枚とんと指の先で刎《は》ね上げました。一枚とられた太田は何のためか、締めていた帯を解いてポンと向うへ投げ出す。
 みどりが呆《あき》れている間に、
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夜をこめて……
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 眼も少々|上《うわ》ずっていた高萩が頓狂《とんきょう》な声を出して、
「ありました」
 身を躍《おど》り出して押えたのが、みどりの前の札でした。
「さあ、みどりさん」
 みんなの眼がみどりの方に向く。左右の二人は、
「帯をお取りなさい」
 みどりの帯へ手をかける。
「まあ、何をなさいます」
「そんなに驚くことはない、これは竹の子勝負というて、一枚とられたら一枚ぬぐというきまり、それで最初には帯から……」
 みどりは驚いてしまって、その手を振り払おうとする間に、かえってこんなのを面白がる連中は、寄ってたかって無残《むざん》にもみどりの帯を解いて、あちらに投げ出す。
 みどりは身も世にあられぬあさましさを感じてポーッとしていると、
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春の夜の……
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「ありました」
 花野は高萩の前にあったのを横の方にポンと飛ばし、
「みどりさんの仇《あだ》を討ちました」
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夕されば……
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「しめた!」
 最初にやられた太田が飛び出したのは、運悪くまたしてもみどりの前でした。
「やれお気の毒な、いざ一皮《ひとかわ》むき給え」
 寄って来て、みどりの上着《うわぎ》に手をかける。
「どうぞ御免あそばして」
 必死にいやがるを、けっく一倍おもしろがる。
「みどり、そんなにむずかるものではない、ほんの座興じゃ」
 上着を剥《は》がるれば下は間着《あいぎ》。
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もろともに……
[#ここで字下げ終わり]
「ありました」
 またしても意地の悪い高萩は、みどりの弱味をつけ込んで覘《ねら》っていた図が当る。
「みどりさん、かさねがさねお気の毒」
 間着を脱げば下は襦袢《じゅばん》。
「どうぞ御免あそばして」
 みどりは腕を組んで固くそこに突伏《つっぷ》してしまいました。
「何という騒ぎだ」
 水汲みに出た与八は、手桶を井戸側に置いて、奥庭の彼方に見える広間の障子に入り乱れた影法師を見ながら突立っていると、庭の石燈籠の蔭で、人らしいものの形が動く。
「はて誰だんべえ、あんなところに人のいるはずがねえ」
 与八はつるべ縄へ掛けた手を休めて見ていると、その人の影は泉水《せんすい》の池のほとりから奥殿の廊下の方へと進んで行きます。泥棒《どろぼう》だ、泥棒に違えねえ、
「泥棒!」
 与八が大きな声で叫ぶと、その声は外なる怪《あや》しの男よりも、家の中の大一座を驚かして、障子を蹴開《けひら》いて廊下へ走り出でます。

         二十八

 その翌日の朝、与八は竹箒《たけぼうき》で庭を掃いていますと、ほかの女中は昨夜の疲れで寝ているのに、みどりの部屋のみは障子があいて、もう起きているようです、それとも夜通し寝なかったものか。
 それとは知らずに掃いて来た与八は、
「これは、みどり様、お早うございます」
 箒の手を休めて、頬冠《ほおかぶ》りをちょいと外《はず》してお辞儀《じぎ》をする。
「与八さん、たいそう早く御精《ごせい》が出ますね」
「エエ、どう致しまして。わしらあ別に早いこともありましねえが、お前様《めいさま》こそエラク早起きで」
「昨夜《ゆうべ》は御苦労でしたねえ。まあ少し、ここでお休み」
 みどりは障子をあけて親切に与八を労《いた》わり、
「お茶を一つおあがり」
 茶と菓子とを縁側のところへ持って出ます。
「こりゃどうも恐れ入ります」
 与八は大悦《おおよろこ》びで、
「お前様はいつも、わしらにそんなに親切をして下さるから有難えと思います、ほんとに済みましねえ」
 悦びながら相当に遠慮をしているのを、
「さあそこへお掛け。与八さん、わたしはお前さんにお礼を言わねばなりませぬ」
「なんの、お前様にお礼を言われるようなことをすべえ、行届かねえ田舎者《いなかもの》ですから、面倒《めんどう》を見てやっておくんなさいまし」
 与八は頬冠りを取って手拭を鷲《わし》づかみにして、しきりにお辞儀をしています。
「お茶がはいりました、遠慮をしないで」
「はい、どうも済みましねえでございます」
 与八は、やっとのことで縁側へ腰をかけ、無器用《ぶきよう》な手つきをして、恐る恐る茶碗を取り上げておしいただきます。
「甘いものはお好きかえ、ここに羊羹《ようかん》があります」
「どうも済みましねえ、こんな結構なお菓子をいただいてどうも済みましねえ」
 与八は片手に茶碗、片手に羊羹をいただいて、幾度もお礼を繰返す。
「与八さん、お前
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