きのう》も一昨日《おととい》も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」
 与八はしきりなく独言《ひとりごと》をつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、
「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」
 独言が途絶《とだ》えて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。
 ややあって与八はまた独言です。
「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へ担《かつ》いで来た、俺《おら》あの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生に文《ふみ》を届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがには解《げ》せねえ女だ」
 こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の木蔭《こかげ》に焚火《たきび》でもあろうか火の光を認めました。
「やあ、火が燃えてるな」
 与八は何の気なく手綱《たづな》を取って行くと、その火のあたりで物騒《ものさわ》がしい人声です。
「朝っぱらから人声がするな」
 近づいて行くにしたがって人声はますます喧《やかま》しいので、
「黙って歩いたらよかんべえ、まるで喧嘩《けんか》みたような、でけえ声をして」
 ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと輪形《わがた》に突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに啖呵《たんか》を切って中なる人を脅迫《きょうはく》している様子です。
「お前たちは何してるだあ」
 丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる工夫《くふう》をすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。
「何だ何だ、手前《てめえ》は」
 悪者の方がかえって驚きます。
「朝っぱらから賭博《ばくち》でもしてるのかと思えば、この小さい人を捉《つか》めえて小言《こごと》を言っているのかい」
 極《きわ》めての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。
「馬鹿だ、こいつは」
「叩きなぐっちまえ」
 悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び廻る下級の長脇差《ながわきざし》、胡麻《ごま》の蠅《はえ》もやれば追剥《おいはぎ》も稼《かせ》ごうという程度の連中で、今、中に取捲いて脅《おど》しているのは、これは十二三になる侍《さむらい》の子と覚《おぼ》しき風采《ふうさい》で、道のまん中に坐り込んだまま、刀の柄《つか》に手をかけて寄らば斬らんと身構えてはいるが、見たところ疲れきって痛々しいばかりです。
「ああわかった、お前たちはなんだな、この子を捉《つか》めえて追剥をすべえというのだな。そんならよした方がいい、人の物を取るのはよくねえだからな」
 悪者どもは吹き出したくなるくらいです。何となれば間《ま》の抜けた面《つら》をこの難場《なんば》へぬっと突き出して、後ろを見れば地蔵様が馬上ゆたかに立たせ給うのである、ばかばかしくて喧嘩にもならない。
「さきほどより申す通り、わしは大事を控えた身なれば、ここにありたけの金子《きんす》をそちたちに遣《つか》わすゆえ見のがせと事を分けて申すに、強《た》って衣類腰の物まで欲しいとならば是非もないから刀を抜く」
 少年は坐りながら、涙ぐんだ眼に彼等を睨《にら》めてキッパリと言う。
「その大小が金目《かねめ》と睨んだのだ、たかの知れたお前たちの小遣銭なんぞに目はくれねえ。よ、痛い目をしねえうちに投げ出しちめえねえ。お前がいくら光るものをひねくったって、こっちは甲州筋で鳴らした兄《にい》さんたち五人のお揃いだ、素直《すなお》に渡して鼻でも拭いて行きねえ」
 手に持った棒を少年の頭の上で振る、一人は手を伸ばして少年の抱えた刀を奪い取ろうと、うつむいた浮腰《うきごし》を横の方から、ひょいと突き飛ばしたのが与八です。
「よくねえことをしやがる」
 悪者の一人は茄子《なす》をころがしたようにのめると、
「この野郎」
 馬鹿と見た馬方が意外の腕立て。

         十九

 与八の力は底知れずですから、悪者どもを手もなく追い払ってしまいました。
 それから与八は少年の傍《そば》へ寄って来て、
「どうだお前様、あぶねえところだったな」
「おかげで助かりました、お礼を申します」
「お前様一人で来なすったのかえ」
「一人で」
「どこから」
「江戸から……」
「お江戸から……そうしてどこへ行きなさるだ」
「青梅の先まで」
「青梅の先……俺も青梅の方へ行くだ、一緒に行くべえ」
「それでは……」
 少年は坐っていたのを、刀を杖《つえ》に立ち上ろうとしたが、よろよろと足が定まりませぬ。そのはず、今朝江戸を出て来たものとすれば、子供の足で七里の道、足が腫《は》れ上って動けないらしい、そこを悪者どもに脅《おびやか》されたものと見えます。それでも我慢《がまん》して、痛いとも疲れたともいわず、与八と連れ立って歩こうとする、その痛々しさは与八も気がつかずにはいられなかったので、
「お前様、足が大分|草臥《くたび》れたようだなあ、待てよ……」
 与八は馬の背中を見上げて、首を傾《かた》げることしばし、
「こうと、荷物はいくらでもねえが、地蔵様を横っちょの方へお廻し申しては勿体《もったい》ないし――お地蔵様と相乗りというわけにもゆくめえし」
 腕を組んでお地蔵様と首っ引きに頻《しき》りに考えていましたが、
「おおそうだ、そうだ」
 にわかに両手を拍《う》って、馬に近寄って、背中に安置した地蔵尊の木像を怖《おそ》る怖る取り下ろし、それを有合せの細帯で後ろへ廻し、子供をおぶうと同じことに自分の背中へ結びつけて、
「これでよし、さあお前様、この馬へ乗っておいでなさい、なに、遠慮しなくてもいいだ、その足で歩けるもんでねえ」
 少年は心から有難そうに、すすめられるままに馬上に跨《また》がります。
 与八はお地蔵様をおぶったまま、手綱を取り上げて馬を引きだす。その恰好《かっこう》のおかしさ。それでも当人はいっこう平気で、
「お前様はお侍様の子供のようだが、青梅はどこまでござらっしゃるかね」
 朝の靄《もや》がすっかり晴れて、雲雀《ひばり》は高く舞い、林から畑、畑から遠く農家の屋根、それから木々の絶え間には、試合のあった御岳山あたりの山々が、いま眠りから醒《さ》めたように遥々《ようよう》として見え渡ります。
「和田というところへ行きます」
「和田へ……」
「和田の宇津木というところまで」
「和田の宇津木様?」
 与八は歩きながら、思わず少年の面《かお》を見上げて、
「宇津木様へ……そりゃお前様の御親類でもあるのかえ」
「宇津木は、わしの実家《うち》じゃ」
「お前様の実家……それではお前様は、文之丞様の弟さんかえ」
「弟の兵馬《ひょうま》という者です」
「ああそうでございましたかい、そうとはちっとも知らなかった」
 この少年こそ、宇津木文之丞の実の弟の兵馬であったのです。
 兵馬は幼少の頃から番町の旗本の片柳《かたやなぎ》という叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家を脱《ぬ》け出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者に脅《おびやか》されたものでありました。
 宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、
「馬子どの、お前もあちらの人か」
「エエわしも」
といったが与八はポキリと言葉の端《はし》を折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、
「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」
「兄上のことを御承知か」
「はあ、よく知ってますだ」
「そんなら机竜之助のことも」
「はあ、その竜之助様のことも」
「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」
「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」
「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」
 兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、
「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」
「尋常の勝負ではなかったはず」
「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら口惜《くや》しいやら……」
 与八は泣き出してしまいました。
「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」
「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」
「お前に……あの試合が?」
「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」
「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の仇討《あだうち》に出て来たのだものを」
「お前様が仇討に――誰を敵《かたき》にお討ちなさるだ」
「机竜之助を」
「机竜之助様を?」
 与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる眼許《めもと》より雫《しずく》が頬を伝うて流れるのを見かけます。

         二十

 七兵衛とお松とを店頭《みせさき》から追い払ったその晩のことです。
 主人は商用で上方《かみがた》へ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分|更《ふ》けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、
「あ、人の足音」
「猫でも来たのだろうよ」
「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」
「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
 そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど店前《みせさき》で追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
 そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾《ずきん》を投げ出したのは、なるほど裏宿《うらじゅく》の七兵衛でありました。
 七兵衛は懐《ふとこ》ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお入用《いりよう》ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お内儀《かみ》さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
 お滝は慄《ふる》え上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から又聞《またぎ》きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの姪《めい》に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、早速《さっそく》手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら夜迷言《よまいごと》をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが貰《もれ》え受けたんだ、お前《めい》たちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が要《い》るか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
 お滝は絶体絶命の体《てい》を、七兵衛は冷《ひや》やかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
 お滝は唇の色まで真
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