し》をさし、羽織《はおり》はつけず、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》もつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠《あみがさ》をかたげて、甲州路の方《かた》を見廻しました。
歳は三十の前後、細面《ほそおもて》で色は白く、身は痩《や》せているが骨格は冴《さ》えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐《あおあらし》が崩《くず》れる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。
妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を剥《む》いてキャッキャッと啼《な》く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。
柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは珍《めず》らしいことではないが、それを珍らしがって悪戯《いたずら》でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うこと
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