はワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
 和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋《みそぎばし》の滝茶屋で駕籠を捨て、小腋《こわき》には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の頂《いただき》が円く肥《こ》えて、一帯に真黒な大杉を被《かぶ》り、その間から青葉若葉が威勢よく盛《も》り上って、その下蔭では鶯《うぐいす》の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根《おね》と谷間の外《はず》れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々《ぼうぼう》と雲に霞《かす》んでいる。文之丞はしばしここに彳《たたず》んでいると、黒門|側《わき》の掛茶屋《かけぢゃや》で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
 女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を呑《の》みながら、ふと傍《かたえ》を見ると、茶屋から崖《がけ》の方へ架《か》け出した妙に捻《ひね》った庵室まがいの小屋に、髯《ひげ》の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹《さんぎぜいちく
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