なさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を遣《つか》わします」
「口惜《くや》しいッ」
 お浜は、どうするつもりか夫の脇差《わきざし》を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向《あおむ》けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍|肯《き》かぬ気象《きしょう》であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が鎮《しず》まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗《むやみ》に口惜しい口惜しいで伏《ふ》しつ転《まろ》びつ憤《いきどお》り泣いているのです。
 宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠《かご》に乗り、たった一人で、これ
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