ったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の裏宿《うらじゅく》の尋常の百姓家の中で、
「おじさん、昨夜《ゆうべ》はどこへ行ったの」
炉の火を火箸《ひばし》で掻《か》きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
その面《かお》を見れば、これはかの峠で火を焚《た》いて猿を逐《お》い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から薪《たきぎ》を運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は得心《とくしん》したが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、
前へ
次へ
全146ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング