冷《ひや》やかな返事です。
 女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、一方《ひとかた》ならぬ色香《いろか》を添えつ、
「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に召抱《めしかか》えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて披露《ひろう》を致す心組みでおりましたところ……」
「それは重ねがさね慶《めで》たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」
「それが折悪《おりあ》しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば生々《しょうじょう》の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、差出《さしで》がましくも折入ってのお願いでござりまする」
 この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その心根《こころね》に対しても、武
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