段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生の型《かた》を」
門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場|名代《なだい》の音無《おとな》しの勝負」
口上《こうじょう》まがいで叫ぶ者がある。
沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼|慣《なら》わしで、竹刀《しない》にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも触《さわ》らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る頭《かしら》、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に拘《かかわ》らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの太刀先《たちさき》に向っては、いずれの剣客も手古摺《てこず》らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
中では返事がない。
「頼みましょう」
まだ誰も返答をするものがない
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