が、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな――海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を信心《しんじん》していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、道傍《みちばた》に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も四谷《よつや》の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、小遣《こづけえ》をぶちまけて買って来た――これを持って帰って家で毎日信心をする」
与八はこんな独言《ひとりごと》をいって歩きます。
「俺もひとりぼっち[#「ぼっち」に傍点]だあけれど、うちの大先生も運の悪い人だ、五年も六年も御病気で、体が利《き》きなさらねえ、たった一人の若先生はあの大試合の日から行方《ゆくえ》知れずになっておしめえなさるし――今は親類の衆が寄って世話をしてござらっしゃるが、やはり親身《しんみ》の人が恋しかんべえ……」
与八の独言は涙まじりになってきます。
「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を勘当《かんどう》しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の親御《おやご》じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが嘘《うそ》だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ――いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって済《す》まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと昨日《きのう》も一昨日《おととい》も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」
与八はしきりなく独言《ひとりごと》をつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、
「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」
独言が途絶《とだ》えて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。
ややあって与八はまた独言です。
「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へ担《かつ》いで来た、俺《おら》あの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生に文《ふみ》を届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがには解《げ》せねえ女だ」
こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の木蔭《こかげ》に焚火《たきび》でもあろうか火の光を認めました。
「やあ、火が燃えてるな」
与八は何の気なく手綱《たづな》を取って行くと、その火のあたりで物騒《ものさわ》がしい人声です。
「朝っぱらから人声がするな」
近づいて行くにしたがって人声はますます喧《やかま》しいので、
「黙って歩いたらよかんべえ、まるで喧嘩《けんか》みたような、でけえ声をして」
ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと輪形《わがた》に突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに啖呵《たんか》を切って中なる人を脅迫《きょうはく》している様子です。
「お前たちは何してるだあ」
丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる工夫《くふう》をすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。
「何だ何だ、手前《てめえ》は」
悪者の方がかえって驚きます。
「朝っぱらから賭博《ばくち》でもしてるのかと思えば、この小さい人を捉《つか》めえて小言《こごと》を言っているのかい」
極《きわ》めての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。
「馬鹿だ、こいつは」
「叩きなぐっちまえ」
悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び
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