つけ》ながらお前さんは山岡屋の御親類なそうな」
「はい、左様《さよう》でございます、この子が山岡屋の御親類で。私は縁もゆかりもない百姓でございますが」
「そう、わたしもあの店でちょいとお聞き申しました、それでお前さん方がお困りのようだから、だしぬけに声をかけてみましたの」
 品のよいわりに口の利《き》きようが慣れ過ぎた女だと思って、七兵衛は、
「左様でございましたか……」
「わたしはね」
 女はちょいと横の方を向いて、
「ついそこの横町に住んでいます者、こんなところで申し上げては失礼ですが、もしなんならそのお娘さんを、わたしがお預かり申し上げても苦しゅうござんせぬ」
「へえ、そりゃ御親切に……」
 七兵衛も、あまり変った救い舟が靄《もや》の中から不意に飛び出して乗せて上げようというのだから聊《いささ》か面喰《めんくら》って、
「御親切は有難う存じますが、見ず知らずのあなた様にお縋《すが》り申しては何が何でもあまりぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]でございますから」
「いいえ、ぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]というのはわたしの言うことよ。世間は妙なもので、お前さんのさっきお言いなさる通り、親類呼ばわりをして来たものを門口《かどぐち》から追い返すものもあれば、赤の他人でもずいぶん因縁《いんねん》ずくで力にもなったりなられたりするものもあります。ほかにどこぞ頼る所でもおありなされば格別、そうでなかったら、ちょうど私の家が手不足で困っておりますから……」
 世間にはなかなか世話好きの女もあるものだと思って、七兵衛がまだ返答もしきらないうちに、女は先に立って、
「まあまあ、わたしの家へお寄りなさい、どちらに致せ今晩はお泊りなすっておいで、ナニ、気遣《きづか》いなものは一人もおりませんよ」
「それでは、せっかくの御親切に甘えまして」
 七兵衛とお松は煙《けむ》に捲かれて、あとをついて行くと、湯島の高台に近い妻恋坂《つまこいざか》の西に外《はず》れた裏のところ、三間間口《さんげんまぐち》を二間の黒塀《くろべい》で、一間のあいだはくぐりの格子《こうし》で、塀の中には見越《みこし》の松から二階の手すりなども見えて、気取った作りの家の前まで来ると女が先に格子をあけて案内した時、表にかけた松月堂古流|云々《うんぬん》の看板で、この女がべつだん凄《すご》いものではなく、花の師匠であることを知りました。
「さあ、お入りなさい、ここはわたしの家で、婆《ばあ》やと猫が一|疋《ぴき》いるばかり」

         十八

 甲州本街道の方は、新宿から八王子まで行く間に五宿、府中、日野まで相当の宿々《しゅくじゅく》もありますけれど、裏街道ときてはただ茫々《ぼうぼう》たる武蔵野の原で、青梅までは人家らしい人家は見えないと言ってもいいくらいです。
 ことにこの青梅街道の中で丸山台というところあたりは追剥《おいはぎ》の類《たぐい》が常に出没して、日の中《うち》に心強い人連れでもなければ屈強《くっきょう》な男でさえ容易にここを通りません。まして日の暮や夜は無論のこと。それを今日は珍らしく、まだ有明《ありあけ》の月が空に残っているうちに、馬の鈴の音がこの丸山台のあたりで聞えます。そして朝露《あさつゆ》をポクポクと馬の草鞋《わらじ》に蹴払《けはら》って、笠を被《かぶ》った一人の若い馬子《まご》が平気でこの丸山台を通り抜けようとしております。大方、江戸を夜前《やぜん》に出て近在へ帰る百姓でありましょう。
 それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは今時分《いまじぶん》ここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですから怖《こわ》いもの知らずです。
 馬の背中には大きな行李《こうり》が三つばかり鞍《くら》に結びつけられて、その真中に丈《たけ》三尺ばかりのお地蔵様の木像、どこから持って来たか、大分に剥《は》げて、錫杖《しゃくじょう》の先や如意宝珠《にょいほうじゅ》なども少々欠けておりますが、それを馬の背の真中へキチンと据《す》えつけて、それを縄《なわ》でほどよく結びつけておきますから、遠くから見ればお地蔵様が馬に乗ってござるようです。
 与八は手綱《たづな》を引張りながら、時々後ろを顧みて地蔵様を打仰ぎ、
「はア、地蔵様ござらっしゃるな」
と声をかけて進んで行きます。
「俺《わし》は子供の時分、なんでもこの街道へ打棄《うっちゃ》られたのを大先生《おおせんせい》が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の股《また》や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、大概《たいがい》の人に父《ちゃん》というものとおっ母《かあ》というものがあるだあ
前へ 次へ
全37ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング