小僧は不承不承《ふしょうぶしょう》にまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、
「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが草鞋銭《わらじせん》だから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」
番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、
「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭の印《しるし》で、これを持ってお帰り下さい」
紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと癇癪《かんしゃく》にこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えます。このときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」
小僧たちの雷のような喚《わめ》きに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に被布《ひふ》の年増《としま》、ちょっと見れば大名か旗本の後家《ごけ》のようで、よく見れば町家《ちょうか》の出らしい婀娜《あだ》なところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草の束《たば》にしたのを持っておりましたが、
「あの、この間の柄《がら》をもう一度見せて下さいな」
「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から新柄《しんがら》が届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」
番頭小僧もろともにペコペコお低頭《じぎ》をして、棚から盛んに反物《たんもの》を担《かつ》ぎ出して切髪の女の前に塁《とりで》を築き立てると、
「ついでがあったものだから」
女は鷹揚《おうよう》にその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、
「おい、番頭さん、こりゃ何だい!」
閑却《かんきゃく》されていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い権幕《けんまく》を見てゾッとする。
「お銭《あし》をいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」
七兵衛は煙管《きせる》をポンと叩いて、
「御当家の御親類のお娘子《むすめご》をお連れ申しただけのことで、それを強請《ゆすり》かなんぞのように銭金《ぜにかね》で追っ払いなぞは恐れ入ります」
そろそろ七兵衛の言い分が巽上《たつみあが》りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、
「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」
といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、
「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」
七兵衛が存外おとなしくて、
「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」
こういって七兵衛は煙管《きせる》を筒の中に納めて、お松を顧み、
「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」
三百両の金を蔵《しま》って立ち上ろうとする。お松は情けない面《かお》をして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さな顋《あご》を襟《えり》にうずめて頷《うなず》きます。
夏の夕風がうすら淋《さび》しい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松は屹《きっ》と振返って山岡屋の暖簾《のれん》を睨《にら》みつけ、暫く立去れない口惜《くや》しさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、
「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」
七兵衛はお松を促《うなが》して連れて行く。
十七
二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。
「もしもしあの、お爺《とっ》さんにお娘さん」
あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って人懐《ひとなつ》こく、
「あの、無躾《ぶし
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