と身を横にして杉の木立を仰ぎます。
「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」
 竜之助はまだなんとも言いません。
「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」
 お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は無言《むごん》。
 夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ爽《さわや》かに響き渡ります。
 霧の御坂でまたしても人の声。
「ああ人が来ます、敵が来ます」
 竜之助は勇躍する。
「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」
 お浜は身を以て竜之助にすがりつく。
 雲と霧とが濛々《もうもう》として全山をこめた時、剣鳴《つるぎな》りがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。

         十六

 本郷元町《ほんごうもとまち》に土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた暖簾《のれん》の前では小僧がしきりに打水《うちみず》をやっていると、
「御免下さいまし」
 入って来たのは百姓|体《てい》の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の裏宿《うらじゅく》の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。
「いらっしゃい……」
 お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、
「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」
「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」
 小僧はいささか拍子抜けの体《てい》でポカンと立っていると、
「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」
「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」
「ヘエ、実は御当家の御親類のお娘子《むすめご》をお連れ申しましたので」
 小僧は怪訝《けげん》な面《かお》をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、
「手前どもの親戚《しんせき》の娘子をお連れ下さいましたとな」
「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお娘御《むすめご》がそれでございます」
 七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な面《かお》をしていましたが、小僧を呼んで、
「長松、なんせ旦那様はお留守《るす》だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
 小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
 番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、不愛想《ぶあいそう》極《きわ》まる面付《かおつき》をしながら、
「番頭さん、お内儀《かみ》さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
 これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
 面を真赤にして眼は潤《うる》みきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお内儀《かみ》さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
 お松は精一杯《せいいっぱい》にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
 小僧は口を尖《とが》らします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
 七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり律儀《りちぎ》な百姓の口調《くちょう》で、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも頼《たよ》る方《かた》といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
 克明《こくめい》に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ厄介者《やっかいもの》と言わぬばかりに小僧に顋《あご》を向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
 
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