衛門)です。この人、柳生《やぎゅう》と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳|忠也《ただなり》が忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と瓶割刀《かめわりとう》とを許される。それを嗣《つ》いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門|忠雄《ただお》で、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに溝口《みぞぐち》派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。
 武蔵国《むさしのくに》秩父小沢口の住人《じゅうにん》逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに就《つ》いて学び、ついにその奥義《おうぎ》を究《きわ》めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と謳《うた》われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと抑《おさ》えたのは当然の貫禄《かんろく》があります。
「検審に向い近ごろ過言《かごん》なり、早々刀を引き候え」
 逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を介抱《かいほう》する、その他の者は刀に手をかけて、眼を瞋《いか》らして竜之助を睨《にら》んで、いざといわば飛びかからん気色《けしき》に見えます。
 竜之助はこの体《てい》を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、左手《ゆんで》に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。
 宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを嫌《きら》い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。
 机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの諸手突《もろてづ》きが極《きま》ったならば、竜之助の咽喉笛《のどぶえ》を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた不審千万《ふしんせんばん》で、無慈悲残忍の一本槍《いっぽんやり》で竜之助を責めるわけにはゆかないのです。
 よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を噤《つぐ》んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
 あとの試合には頓着《とんちゃく》なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、夕餉《ゆうげ》を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて奥《おく》の宮道《みやみち》の方へブラリと出かけました。

         十五

 随神門《ずいしんもん》を入って、霧《きり》の御坂《みさか》を登り、右の小径《こみち》を行くと奥の宮|七代《ななよ》の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の透《す》く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に捲《ま》き込んで行く。
 見返れば社殿に上げられた篝火《かがりび》、燈籠《とうろう》の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
 立ち尽していると頭上《ずじょう》で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は高野《こうや》の奥に鳴くという仏法僧。
 ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
 それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、暗討《やみうち》がありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の手利《てきき》が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
 女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
 目の前なる塞《さい》の神《かみ》の社《やしろ》を指《さ》しますと、
「竜之助様、あなたは斬死《きりじに》をなさる気か」
 お浜は竜之助の行手《ゆくて》を遮《さえぎ》るようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
 お浜の声は震《ふる》えて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
 竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
 御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
 お浜の身は寛《ゆる》く、そして強くだんだんに竜之助の身を圧《お》して来ます。
 御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
「不如帰《ほととぎす》ではないかしら」
 お浜はわざ
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