文之丞の木刀の先が鶺鴒《せきれい》の尾のように動き出してきました。業《わざ》をするつもりであろうと、一心斎は咽喉《のど》まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべき険《けわ》しさに変っておりました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。
逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色を湛《たた》えて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振って肯《うけが》いません。一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この濛々《もうもう》と立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない。今や毫厘《ごうりん》の猶予《ゆうよ》も為し難いと見たから、
「分け!」
これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、
「突き!」
文之丞から出た諸手突《もろてづ》きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が一斉《いっせい》にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に突伏《つっぷ》してしまいました。
机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています。
十三
間髪《かんはつ》を容《い》れざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、
「この立合、勝負なし、分け!」
と宣告しました。
分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同の面《おもて》にやや不服の色が顕《あら》われました。
机竜之助の白く光る眼は屹《きっ》と一心斎の面に注《そそ》ぎまして、
「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」
片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、
「いかにも分け、勝負なし」
竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、
「さらば当の相手をこれへ出し候え」
「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が見分《けんぶん》に不服があらば申してみられい」
「申さいでか。突いて来た刀を前に進んで外《はず》し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお見損《みそこな》いか」
試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。
しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと気遣《きづか》えば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、
「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」
分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の隙《すき》もないようであるが、分けて考えれば三つになる。
竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、
「しからば再勝負を所望《しょもう》する」
「奉納の試合に意趣は禁物」
一心斎が取合わぬのを竜之助は固く執《と》って屈せず、
「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」
明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた肯《き》かぬ気の一徹者《いってつもの》で、
「再試合なり申さぬ、強《た》ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」
「これは近ごろ面白い」
竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を挫《くじ》く太刀筋は衰え申さぬ」
武芸者気質《ぶげいしゃかたぎ》で、一心斎は竜之助の剛情が赫《かっ》と癪《しゃく》に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ物言《ものいい》になったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそ儲《もう》けものと、一同は手に汗を握っていると、
「机氏、机氏、控えさっしゃれ」
たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。
十四
逸見利恭《へんみとしやす》は甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。
そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎|景久《かげひさ》で、その衣鉢《いはつ》を受けたのが神子上典膳忠明《みこがみてんぜんただあき》(小野治郎左
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