大菩薩峠
甲源一刀流の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)曲尽《きょくじん》して
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東山梨郡|萩原《はぎわら》村
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と
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[#ページの天地左右中央に]
この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽《きょくじん》して、大乗遊戯《だいじょうゆげ》の境に参入するカルマ曼陀羅《まんだら》の面影を大凡下《だいぼんげ》の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染《いっせん》の好憎に執し給うこと勿れ。至嘱《ししょく》。[#地から2字上げ]著者謹言
[#改ページ]
一
大菩薩峠《だいぼさつとうげ》は江戸を西に距《さ》る三十里、甲州裏街道が甲斐国《かいのくに》東山梨郡|萩原《はぎわら》村に入って、その最も高く最も険《けわ》しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖《ひじり》が、この嶺《みね》の頂《いただき》に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋《う》めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹《ふえふき》川となり、いずれも流れの末永く人を湿《うる》おし田を実《みの》らすと申し伝えられてあります。
江戸を出て、武州八王子の宿《しゅく》から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分《おいわけ》を右にとって往《ゆ》くこと十三里、武州|青梅《おうめ》の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和《いさわ》へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊《やまとたけるのみこと》、中世に日蓮上人の遊跡《ゆうせき》があり、降《くだ》って慶応の頃、海老蔵《えびぞう》、小団次《こだんじ》などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内《ぐんない》あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖《おそ》れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上《のぼ》り煩《わずら》う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
「上野原《うえのはら》へ、盗人《ぬすっと》が入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行《はや》ることやら」
妙見《みょうけん》の社《やしろ》の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑《やきばた》も作るという人たちであります。
これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅《こすげ》から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩《ぎょえん》を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうが怖《こわ》いのは物持《ものもち》の衆《しゅう》のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で怖《おそ》れて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路《ぶしゅうじ》の方から青葉の茂みをわけて登り来る人影《ひとかげ》があります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋《いとかわぶくろ》が結びつけられた背負梯子《しょいばしご》へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、社《やしろ》の裏路を黄金沢《こがねざわ》の方へ切れてしまいます。
二
ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士《さむらい》でありました。黒の着流しで、定紋《じょうもん》は放《はな》れ駒《ごま》、博多《はかた》の帯を締めて、朱微塵《しゅみじん》、海老鞘《えびざや》の刀|脇差《わきざ
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