し》をさし、羽織《はおり》はつけず、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》もつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠《あみがさ》をかたげて、甲州路の方《かた》を見廻しました。
 歳は三十の前後、細面《ほそおもて》で色は白く、身は痩《や》せているが骨格は冴《さ》えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐《あおあらし》が崩《くず》れる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。
 妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を剥《む》いてキャッキャッと啼《な》く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。
 柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは珍《めず》らしいことではないが、それを珍らしがって悪戯《いたずら》でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります。人の弱味《よわみ》を見るに上手《じょうず》なこの群集動物は、相手を見くびると脅迫《きょうはく》する、敵《かな》わない時は味方《みかた》を呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅に慣《な》れた人は、その虚勢を知って自《おのずか》らそれに処するの道があるのであります。
 右の武士は、慣れた人と見えて、一目《ひとめ》猿を睨《にら》みつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに擬勢《ぎせい》を示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。
 さりとて容易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして小半時《こはんとき》もたつと、木の葉の繁みを洩《も》れて、かすかに人の声がします。その声を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、羊腸《ようちょう》たる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。
「お爺《じい》さん――」
 よく澄んだ子供の声がします。見れば一人は年寄《としより》で半町ほど先に、それと後《おく》れて十二三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。
 右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。
「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」
 年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて跪《かしこ》まると、
「お爺さん、ここが頂上かい」
 面立《おもだち》の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。
「これからは下り一方で、日の暮までに河内泊《かわちどま》りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」
 老爺《ろうや》は行李《こうり》を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、
「お爺さん、その瓢箪《ひょうたん》をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを汲《く》んでまいりましょう」
「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」
 腰なる瓢箪を抜き取ると、
「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」
 女の子は、老人の手から瓢《ふくべ》を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて山路《やまじ》をかけ下ります。
 老人は空《むな》しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後《うしろ》から人の足音が起ります。
「老爺《おやじ》」
 それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
 老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶《あいさつ》をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
 編笠も取らず、用事をも言わず、小手招《こてまね》きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
 小腰《こごし》をかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
 この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという無残《むざん》なことでしょう、あっという間もなく、胴体《どうたい》全く二つになって青草の上にのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。

         三

「お爺《じい》さん、水を汲んで来てよ」
 瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、
「お爺さんはどこへ行ったろう」
 お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、
「あれ――」
 瓢《ふくべ》を投げ出し
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