て縋《すが》りついたのは老人の亡骸《なきがら》でした。
「お爺さん、誰に殺されたの――」
亡骸をかき抱いて泣きくずれます。
ここにこの不慮の椿事《ちんじ》を平気で高見《たかみ》の見物《けんぶつ》をしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かの栗《くり》の木の上の猿です。
猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました。老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さな奴《やつ》がいきなり飛び出して、少女の頭髪《かみ》にさしてあった小さな簪《かんざし》をちょっとツマんで引き抜き、したり顔《がお》に仲間のものに見せびらかすような身振《みぶり》をする。それを見た、も一つの小猿は負けない気で、少女の頭髪から櫛《くし》を抜き取って振りかざす。その間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の握飯《にぎりめし》を引き出して口々に頬《ほお》ばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。
我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、
「あれ――」
と飛びのいたが、気丈《きじょう》な子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼を剥《む》き出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、物凄《ものすご》い光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります。
年配は四十ぐらいで、菅笠《すげがさ》をかぶって竪縞《たてじま》の風合羽《かざがっぱ》を着、道中差《どうちゅうざし》を一本さしておりましたが、手に持っていた松明《たいまつ》の火を振り廻すと、今まで驕《おご》っていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へと馳《は》せ上ります。
旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類を逐《お》うべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します。獣類のなかでも猿はことに火を怖《おそ》れるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、
「姉《ねえ》さん、怪我《けが》はなかったかね」
近く寄って見て、
「おやおや、人が斬られている!」
少女を掻き分け死骸《しがい》へ手をかけ、その斬口《きりくち》を検《しら》べて見て、
「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる奴《やつ》が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」
旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ下《さが》りの陽《ひ》を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。
四
大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の御岳山《みたけさん》と多摩川を隔てて向き合ったところに、柚《ゆず》のよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、冠木門《かぶきもん》の左右に長蛇《ちょうだ》の如く走る白壁に黒い腰をつけた塀《へい》と、それを越した入母屋風《いりもやふう》の大屋根であって、これが机竜之助《つくえりゅうのすけ》の邸宅であります。
机の家は相馬《そうま》の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。
「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に辻斬《つじぎり》があったそうにござります」
「ナニ、大菩薩に辻斬が……」
「年とった巡礼が一人、生胴《いきどう》をものの見事にやられたと甲州から来た人の専《もっぱ》らの噂《うわさ》でござりまする」
「やれやれ年寄の巡礼が、無残《むざん》なことじゃ」
「近頃の盗人沙汰《ぬすびとざた》と言い、またしても辻斬、物騒千万《ぶっそうせんばん》なことでございますな」
「左様《さよう》、なにしろこの街道筋《かいどうすじ》は申すに及ばず、秩父《ちちぶ》、熊谷《くまがや》から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」
「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の腹切《はらきり》ものだ」
「それにしても、この沢井村|界隈《かいわい》に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」
沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前
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