外にもこれは離縁状、俗にいう三行半《みくだりはん》でありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
呆気《あっけ》に取られて夫の面《おもて》をみつめていましたが、開き直って、
「お戯《たわむ》れも過ぎましょう。何の咎《とが》で私が去状《さりじょう》いただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、仔細《しさい》も聞かずに去状もらいましたと親許《おやもと》へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が手込《てごめ》に遭《あ》って帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が行方《ゆくえ》と言い、その夜のそなたが素振《そぶり》、訝《いぶか》しい限りと思うていたが、人の噂《うわさ》で思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
お浜は嚇《かっ》となり、
「あられもない噂を言いがかりに私を逐《お》い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を遣《つか》わします」
「口惜《くや》しいッ」
お浜は、どうするつもりか夫の脇差《わきざし》を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向《あおむ》けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍|肯《き》かぬ気象《きしょう》であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が鎮《しず》まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗《むやみ》に口惜しい口惜しいで伏《ふ》しつ転《まろ》びつ憤《いきどお》り泣いているのです。
宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠《かご》に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋《みそぎばし》の滝茶屋で駕籠を捨て、小腋《こわき》には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の頂《いただき》が円く肥《こ》えて、一帯に真黒な大杉を被《かぶ》り、その間から青葉若葉が威勢よく盛《も》り上って、その下蔭では鶯《うぐいす》の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根《おね》と谷間の外《はず》れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々《ぼうぼう》と雲に霞《かす》んでいる。文之丞はしばしここに彳《たたず》んでいると、黒門|側《わき》の掛茶屋《かけぢゃや》で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を呑《の》みながら、ふと傍《かたえ》を見ると、茶屋から崖《がけ》の方へ架《か》け出した妙に捻《ひね》った庵室まがいの小屋に、髯《ひげ》の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹《さんぎぜいちく》が置いてある。
「易《えき》を立てて進《しん》ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び勧《すす》めようともしません。
おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は何気《なにげ》なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと気色《けしき》ばんだが、幸いに編笠《あみがさ》を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
竜之助は老人の面を見て頼むとばかり頷《うなず》くと、老人は筮竹《ぜいちく》を取り上げて、
「そもそも愚老の易断《えきだん》は、下世話《げせわ》に申す当るも八卦《はっけ》当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと
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