お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」
「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」
 主人は蒲団《ふとん》の下を探って取り出したのが、錦《にしき》の袋に入れた短刀ようのもの。
「おじさん、これは何」
「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」
「これは短刀ではないの」
「うむ、そうだ、用心に肌身《はだみ》をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」
 少女は何だか合点《がてん》がゆきません。ようよう寝床を這《は》い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、跛足《びっこ》を引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、
「七兵衛さん、七兵衛さん」
 表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。
「これは嘉右衛門《かえもん》さん、朝っぱらからどちらへ」
「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」
「お見舞に? どこへ」
「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」
「材木屋のあの藤三郎さんが?」
「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの最中《さいちゅう》だよ」
「それはまあ、どうしたわけで」
「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」
「盗賊のかかり合い?」
 七兵衛は思わず小首を傾けながら、
「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」
「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」
「ナニ、上野原のお陣屋へ?」
「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が書付《かきつけ》を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」
「書付を拾われた?」
 七兵衛は思わず自分のふところを撫《な》でてみる。
「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと印形《いんぎょう》まで据《す》わっている」
「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」
「怪我をなすった?」
「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
 嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠《かご》もあらあな」
「嬉《うれ》しいこと」
 お松は大欣《おおよろこ》びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。

         十

 今日は五月の五日、御岳山上へ関八州《かんはっしゅう》の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
 机竜之助はこの朝、縁側《えんがわ》に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
 白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴《さつきば》れの空の色を鮮《あざ》やかにします。
「奉納日和《ほうのうびより》でござりまするな」
 門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
 竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴《いきどう》を試《ため》してその切味《きれあじ》に覚えのある武蔵太郎安国の鍛《きた》えた業物《わざもの》を横たえて、門弟下男ら都合《つごう》三人を引きつれて、いざ出立《しゅったつ》の間際《まぎわ》へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
 与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも女文字《おんなもじ》。
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と脅《おど》したあの謎《なぞ》の、これが心か。
 竜之助は忙《せわ》しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。

         十一

 この日、宇津木文之丞もまた夙《つと》に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を己《おの》が居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
 人を嫌った気色《けしき》は別段に改まって、愁《うれ》いと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の門出《かどで》に、これをそなたに遣《つか》わします」
 机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は不審顔《ふしんがお》に手に取って見ますと、意
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